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ハンカチ王子との優勝を賭けた投げ合い。内面に抱えた苦悩とは――慶大助監督・竹内大助の知られざる野球人生【第2章】

大学2年生で開幕戦に登板した竹内は、見事に東大打線を翻弄。なんとノーヒットノーランを達成し、名声を高めた。写真:産経新聞社
慶應大学野球部“助監督”として、2人の監督に仕え、150人を超える部員たちとの繋ぎ役を務めてきた竹内大助。その仕事ぶりは、陽の当たらないところでチームを支える“裏方”の色合いが強かった。

大学時代は4年間で通算22勝という輝かしい記録を残すスター選手。だが、学生たちにはそうした昔話をほとんどしようとしない。

常に名門チーム、強豪チームに籍を置き、野球の厳しさや難しさと向き合いながら生きてきた現役時代のキャリアは、竹内にどんな野球観を植えつけていたのか?

第2話となる今回は、助監督就任前の“投手・竹内”にスポットを当てる。

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「周りから見たら、面倒くさい選手だったと思いますよ」

竹内は現役時代の自分をそんなふうに表現する。穏やかな口調からは、よくあるヤンチャ者の匂いはしない。人前で剽軽なことを言ったり、感情を表に出してチームを引っ張るようなムードメーカーとも違う。群れることを好まず、警戒心というバリアのなかに自分の世界を持っていた。
高校時代は、愛知県の古豪・中京大中京の背番号10番。かといって2番手投手というわけではなく、複数投手陣の一角という位置づけ。竹内が先発でゲームを作り、背番号1番の細川貴紀に継投するのが必勝パターンだった。

3年生の春、甲子園のセンバツ大会に出場。初戦で明徳義塾(高知)と対戦し、延長10回、2-3でサヨナラ負けを喫する。先発した竹内は、6回途中、味方のエラーをきっかけに満塁のピンチを背負った場面でマウンドを降りている。

最後の夏は、県大会準決勝で愛知啓成に4-8と敗れた。ちなみにこの翌年、4番エース堂林翔太(広島)を中心とする次の代のチームが、夏の甲子園で、同校43年ぶり、史上最多となる通算7度目の全国制覇を果たしている。

慶大2年生の春、突然、その名を知られることになった。

開幕の東大戦に先発した竹内は、東大打線に1本のヒットも許さず、ノーヒットノーランで初勝利を挙げる。開幕戦での記録達成は、じつに69年ぶりの快挙だった。

1年時には、春はリーグ戦の登板はなく、秋に開幕カードで1試合、短いイニングを投げただけ。その後はベンチ入りもなかった。だから実質、これがデビュー戦といってもいい。なおかつ、小学校3年生で野球を始めて以来、9回を投げきっての完投は初だという。

竹内はこのシーズン、9試合に登板して6勝2敗。慶大の11季ぶりの優勝の原動力となり、ベストナインも受賞している。

この実績のない2年生投手が、なぜ大事な開幕戦の先発に抜擢されたのか。 慶大はこの年(2010年)から、プロ野球出身で、巨人やロッテ、DeNAなどでコーチを務めたキャリアを持つ江藤省三が監督に就任していた。そして、この年のチームは、前年まで主戦として投げていたのが中林伸陽(JFE東日本)、小室潤平(三菱重工名古屋)らほとんど4年生だったため、彼らが卒業し、残った投手陣は全員が神宮未勝利という、まさに“0からのスタート”状態だった。

そこで江藤監督が目を付けたのが、竹内と福谷浩司(現中日)という、2人の2年生投手だった。指揮官は竹内を初戦、福谷を2戦目の先発に起用し、このシーズン、チームの全勝ち星となる8勝を2人で挙げている。

「竹内を使った理由? 中京(中京大中京)なら根性もあるだろうと思ってね。なんてったって、私の後輩なんですから」

そう言ってケラケラと笑う江藤は、他ならぬ、「中京商業」の校名だった時代の中京大中京出身。竹内の大先輩にあたる。もちろんジョークだが、後輩に期待し、目を掛けたというのは本心だろう。ノーヒットノーランのウイニングボールは、江藤の監督としての初勝利のウイニングボールでもあった。試合後、記念のボールをプレゼントされた江藤は嬉し涙を流している。

そういう期待は、本人にも伝わる。竹内自身、「もう、チャンスはここしかない! というくらいの気持ちがありました」と言う。

ストレートの球速は140キロ前後ながら、カーブ、スライダー、チェンジアップと変化球が多彩で、なおかつ打者の狙いを逆手に取る巧みな投球術が持ち味だった。左腕からの力感のないフォーム。そのシルエットは、大学通算31勝を挙げ、卒業時に巨人から熱心な誘いを受けたがプロ入りを拒否し一般企業に就職したという逸話を持つ慶大のかつてのエース、志村亮とイメージを重ねる年配ファンも多かった。

竹内は、「コントロールが良いというイメージを逆手にとっていました」と言う。

「じつはコントロールにまったく自信がなくて。じゃあ何で抑えていたかといえば、緩急に尽きると思います。相手がされて嫌なことをし続けました。ストレートを待っている打者に変化球を投げ、変化球を待っている打者にはストレートを投げ」
それはどこで身に付けたものだったのか?

「もちろん、いろんな指導者の方や先輩方から教えていただいたことですけど。自分は150キロを投げられるピッチャーではないので、その遅いボールで勝つためにはどうすればいいんだろう? ということを、大学に入ってからずっと考えていました。

もともとバッターからの目線とか、バッターの心理状態を考えたりすることが好きだったんです。普段から、こういうことをしたら打者は嫌だろうなとか、あれこれ考えて、仮説を立てて、それをグラウンドで検証しているような感じでしたね」

武器があった。それは自分でも投げてみないとわからない独特の変化をするチェンジアップだ。

「デットボールを怖がって、そのボール(チェンジアップ)を選択肢から消したら、自分は生き残れないんで」と言う。左打者に対しても「当ててしまったら仕方ない」という強い気持ちで膝元めがけて投げ込んだ。

「自分自身では135キロだろうが、137キロだろうが、“俺は本格派だ”と思って練習していましたけどね」

竹内は少し恥ずかしそうに笑う。同じ左腕の今中慎二(元中日)や杉内俊哉(現巨人二軍投手コーチ)のように、力感のないフォームでピュッと伸びてきてバットに差し込むストレートが投げたかった。それを意識する打者に嘲笑うようなチェンジアップ。よく映像を見ては、「これだよなぁ」と独りごちていた。 秋には、また違った形で注目を集めることになった。

早大があと1勝で優勝という「マジック1」の状況で迎えた早慶戦。初戦、早大の先発は、大学最終シーズンを迎えた“ハンカチ王子”斎藤佑樹。4年間、神宮を沸かせてきた人気者が最後に優勝投手となる大団円を、ファンもマスコミも待ち望んでいた。

そこに立ちはだかったのが、竹内だった。

慶大にも逆転優勝の可能性がわずかに残っていた。早慶戦で連勝し、優勝決定戦も勝つ。つまり3連勝が条件。

「ここで空気読まずに勝ったら名前売れるだろうな、とは思ってましたよ。お膳立てするつもりなんてサラサラない。3つ勝つつもりでやってました」

先発した竹内は7回まで早大打線を無失点に抑え込み、8回からリリーフした福谷との完封リレーで2-0。見事、斎藤に投げ勝つ。続く第2戦は福谷が完投して7-1で勝利。両校8勝4敗で並び、竹内の目論見通り優勝決定戦にもつれ込んだ。逆王手を掛けられた早大は、どれほど冷や汗をかいたことだろう。

優勝決定戦でふたたび斎藤と投げ合った竹内。しかし、初回から3失点を喫して3回で降板。試合は5-10で敗れて、早大が歓喜のリーグ優勝を飾った。ちなみに早大は続く明治神宮大会も制して日本一。斎藤は、大学野球の有終の美を飾ることになった。

「結局、お膳立てする立場になってしまいましたね」と苦笑いを浮かべる竹内。
この年、東海大のエースだった菅野智之(現・巨人)とも投げ合っている。「完膚なきまでに叩きのめされました」と振り返る。

春の大学選手権準決勝。スコアは0-5の完敗。7回途中、3失点で降板した竹内に対して、菅野は慶大打線から17奪三振の完封。球場のスピードガンは155キロを計測する。

「菅野さんの投げているボールを見て、これはもうレベルが違う、と。対戦したなかでは、菅野さんと、明大の野村祐輔(現・広島)さんは、“凄い”と圧倒される投手でした」

そうした相手校のエースたちと投げ合うのが、1戦目を任された竹内の役割であり、それだけに、シーズン5勝6勝と大勝ちすることもあれば、勝ち星がなかなか伸びないシーズンもあった。

「毎シーズン、投げていくなかで、成績の良し悪しが出るじゃないですか。でも、何があってもまずあそこ(神宮球場のマウンド)に立ち続けることが自分の責任だと思っていました。そのためには練習もしなければいけない、研究もしなくてはいけない、と」

こうした華やかな球歴を、竹内は助監督在任中、学生たちに一度も話さなかった。口にするのは、もっぱら打たれた試合や失敗した経験ばかり。あるとき、グラウンドを訪れた江藤が、「お前ら、知ってるのか? この人はノーヒットノーランでデビューしたんだぞ」とポロッと言うと、学生たちは「マジ? 凄え」と驚いていたという。

自制して言わなかったわけではない。竹内のなかでは「華やか」ではなく、「苦悩」の記憶が多い4年間だったからだ。 大学時代、マウンド上の竹内は、常に冷静で淡々と投げていた印象がある。

だが、痛打を浴び、手痛い失点をした時には、ベンチに戻ってくるまでは表情を変えずにいるが、観客から見えないベンチの奥に行くと、グラブをたたきつけ、きれいに揃えて並べられた他の選手のスパイクを蹴散らした。竹内が静まると、上級生がやってきてスパイクを揃え直していたという。

監督や先輩に反抗をしていたわけではない。自分のなかで、どうにもならない感情を抑えることが出来なかったのだ。その感情の正体がわかった時がある。

大学2年の6月、春のシーズンの活躍を評価され、大学日本代表の強化合宿に招集された。投手では菅野、野村、東洋大の藤岡貴裕(元巨人)、亜大の東浜巨(現ソフトバンク)、九州共立大の大瀬良大地(現広島)と錚々たる顔ぶれが揃っていた。

合宿が終わった日、当時から付き合っていた妻のまりえの携帯に突然、着信が入った。

「今から行っていい?」

合宿から帰京したばかりの竹内からだった。後にも先にも、そんなことを言ってきたことは一度もなかった。当然、心配になる。まりえが「何かあったのかな?」とヤキモキしながら待っていると、やって来た竹内は、目を輝かせながらこう言った。

「俺、野球が好きだ」

日頃、そういう言葉をあまり口に出すタイプではなかった。驚いたが、竹内の野球への強い情熱はもともと理解していた。「本当に真剣に野球に取り組んでいましたから」とまりえは言う。

シーズンオフに二人で旅行に行く計画を立てたことがある。出発の日、昼過ぎの出発時間に合わせ、竹内は午前中いっぱい自主練習を済ませてから待ち合わせ場所にやってきた。翌日、昼に帰ってくると、午後にはその足でまた練習に向かった。
やるだけのことはやっているという自負。だが、心のどこかに閉塞感を抱いていた。「俺、このままでいいのかな?」と思いながらも、どうすればいいのかがわからなかった。そんな時に、大学野球のトップレベルの投手たちと一緒に練習し、同じ時間を過ごしたことで、強い刺激を受けた。彼らはみな野球に対して貪欲で、その感情を隠すことなく表に出していた。

「僕も、“俺がエースだ”という意識はすごく持っていたんです。ただ、その表現の仕方が間違っていたのかもしれません。周りを巻き込んで全員を引っ張るというよりは、自分が孤高であっても成果を残し続けたらいいだろうという感覚だったんです。

高校、大学と、僕はどちらかというと下級生の時に活躍させてもらっています。上級生が一緒にいてくれる時のほうが、力を発揮出来るタイプなのかなと思う部分があります。下級生の時って、ある程度ワガママが許されるじゃないですか。

自分がやりたいようにやって、それで上手くいかなくても先輩がカバーしてくれる。でも本来は、チーム観を持つというか、チームが勝つためにどう振る舞うのかというところが大事だったと思うんです。もちろん、そういう気持ちがなかったわけじゃないですよ。だけど、自分のやり方はちょっと間違っていたのかなと、考えるところはありました」

そんな竹内の内面の葛藤を、じつはチームメイトも理解していた。当時のチームにトレーナーとして帯同していた高村克己は言う。

「4年生になってから、意識して自分を変えようとしているんだな、という思いは伝わってきました」

いつも物静かだったのが、よく周囲と会話を交わすようになった。ランニングでも先頭に立ち誰よりも声を出して引っ張っている。下級生にアドバイスすることも増えた。

「ボールの力とか、投手としてのポテンシャルでは福谷なんだけど、“このチームのエースは大助だ”という気持ちは、みんなが持っていたと思います」と高村。

4年生のシーズンは、春が4勝3敗。秋が1勝3敗。2年春から休むことなく投げ続けた竹内は、4年間で通算56試合に登板。22勝15敗の成績を残している。

そして、春先からプロ希望を明言していた。

——第3章へ続く——

取材・文●矢崎良一

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