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下田恒幸が語る、スポーツ実況。「第一は、起きていることの音声化です」

下田恒幸(しもだ・つねゆき)。サッカー界で長きに渡って実況として活躍し、W杯の日本代表戦やチャンピオンズリーグ決勝を担当した経験を持つベテランアナウンサー。地方局を経て2005年からフリーとなり、現在は主にスカパー!やDAZNのサッカー中継を務めています。

年間の中継数は200試合超。そんな下田さんがスポーツアナウンサーの世界に至るまでには、幼少期を過ごしたブラジルでのある経験が影響していたそうです。今回は下田さんのルーツに加え、2010年の南アフリカW杯・日本対カメルーン戦での“名口上”が生まれた経緯についてもお話いただきました。

ブラジルと日本で発見した、実況のルーツ

下田恒幸(以下、下田) 小学生の時は、プロ野球の巨人を応援していました。遊びレベルで野球をやることはありましたが、サッカーとの接点は何もなかったです。テレビ放送もやっていなければ、周りに興味がある人もいなかったですから。

小学3年生から中学1年生の途中まで、父親の仕事の都合でブラジル・サンパウロの日本人学校で過ごしました。当然、ブラジルには野球の文化がないですが、サッカーは盛んなので、クラスメイトに影響されてサッカーを楽しむようになりました。

サッカーを観戦する機会も何回かあって、モルンビーでサンパウロとパルメイラスの試合を観戦しましたね。ヨーロッパや南米には今でもラジオの文化があるのですが、当時もラジオでサッカーを“聴く”ことがありました。

クラスメイトと一緒に楽しんだり、土日に家族と出かける時にカーラジオで流してもらったり。日本に帰ってきてからも、サッカーをプレーすることはあまりなく、高校のサッカー部に少し所属していた程度です。やるより見る派でしたね。

局アナからフリーを選んだ理由

下田 アナウンサーという職業を意識し始めたのは、ブラジルで日本人学校に通っていた小学5年生の時です。クラスメイトとサッカーの話を良くしている中で、担任の先生に『お前は本当に良くしゃべる。サッカーが好きなら、アナウンサーでもやったらどうだ?』と言われて。それからは、サッカーのラジオでも意識的に実況を聴くようになりました。

ブラジルのサッカー中継は、試合に良く乗って、音で一緒にプレーしているような感覚があります。ポルトガル語が分からなくても、選手名と、右や左、ドリブル、シュートなど、基本的な用語さえ分かれば、起こっていることが目に浮かぶ。ブラジル人のラジオアナウンサーは、そんな実況をします。

日本の野球中継も同じですよね。『ピッチャー振りかぶって第一球、投げました!』と動きに合わせるじゃないですか。その感覚が面白いとずっと思っていて、僕が選手の動きに合わせた実況を意識していることのルーツになっています。

僕はニッポン放送の“ショーアップ”した野球中継が好きでした。単純にいうと、実況がすごく大げさなんですよね。後から映像で見ると大したライトフライじゃないのに、『ライトバック!なおバック、ずっーーーとバック!塀にかじりついた、獲った!獲りました!』と、微妙に盛って実況するんですよ。それが僕の耳に馴染んだというか、惹かれた部分でもあります。

スポーツ実況はうんちくを語る場でもないし、目線を語る場でもない。第一は、起こっていることを描写する仕事です。何も起こっていない時間に様々な情報やネタを紹介するのは良いですが、プレーが動いている時は、それを描写して伝えるのが優先です。恐らくヨーロッパでも南米でも同じだと思いますよ。

僕は『知識がある』と言われることがありますが、知識なんてないんですよ。たくさん試合を見ているので、起こっていることを見極める力はあるかもしれないですが、細かいうんちくは持っていない。それよりも起こっていることをダイレクトに音声化するのが重要だと思っていて、そのルーツはブラジルのラジオやニッポン放送にあります。

大学は慶應に進んだのですが、そこでは、学園祭の実行委員を務めていました。あれだけ大規模なイベントを作るというのは、なかなか興味深かったです。そこからアナウンサーを目指して就職活動に取り組んだわけですが、採用試験の時は、ブラジルにいたということは他の人にない要素だったのでアピールしていたかな。

アナウンサーの採用試験では、必ずプロであるアナウンサーも採用に参加していて、喋り方や音声を聴いて、実況ができる素材かどうかを判断します。なぜ採用にプロであるアナウンサーが介在する必要があるのかというと、アナウンサーで入社すると基本的には局内での異動はほとんどないんです。多くの場合、定年近くまで異動しない。なので、異動させる必要がないくらいの喋り手としてのポテンシャルを持っているかどうかをプロが精査して選ばないといけないからです。

就職から定年まで、30~40年仕事を続けると、払うサラリーは数億円になるじゃないですか。その数億円を投資する価値があると見込んで採用したのに、3年くらいで『これはアナウンサーとしては難しいな』と判断されたら、選んだ側の責任になってしまいます。だからこそ、選ぶ側の責任も大きいですし、プロの目を通して採用しないと成立しない職業ではあります。

入社した仙台放送では小学生のドッジボールの全国大会を実況することもありました。ドッジボールは意外とルールが複雑だったり、当たらないための集団戦術があったりして、それを踏まえながら中継していました。サッカーでいうと、入社した年に宮城でインターハイがあって、その大会では、ダークホースの東北学院高校がベスト8まで進出し、優勝候補の武南高校に勝ち、ベスト4で準優勝した南宇和高校と対戦することになり『実況つけて取材してこい』と言われて。中継として放送された訳ではないですが、一応、これが初めてのサッカー実況です。

サッカーだけでなく、その期間中の速報番組で様々な競技の取材に行きましたが、僕はあくまで実況をやるために局に入ったつもりだったので、どの取材に行く時も『実況をつけてくるから、それをVTRの中で使って下さい』とディレクターに話をして、現場で実況をつけていました。今考えれば新人のくせに偉そうだなと思いますけど、そのくらい実況へのこだわりはありました。

フリーになったのは2005年のことです。ベガルタ仙台がJ2に降格した2004年に仙台放送が、スカパー!とJ SPORTSの下請けでJ2の中継を制作したんですね。昇格候補の筆頭だろうって事で先方さんが現地で実況つきで映像制作して欲しいとの意向もあって。ちょうど後輩のアナウンサーがスポーツから離れており、僕しか実況できる人がいなかったこともあって、ホームゲームの大半の実況を担当させてもらいました。

実況というのは話せば話すほど上手くなるんですよね。でも、年に1、2回だと「今回こうだったから、次はこうやろう」と反省しても、次の機会が1年後になってしまうので、進化のスピードが遅いんです。Jリーグではホームゲームが2試合ごとに開催されるので、2週間に1回のペースで実況するようになると、どんどんスキルが磨かれていく感覚がありました。

その中継の仕事は翌年も依頼を受けたのですが、東北楽天ゴールデンイーグルスが設立されたこともあって「下請けの制作を引き受ける余裕はない」という判断で、仙台放送が断ったんです。その年は2試合だけサッカー中継の機会はあったものの、これでは数が足りないなと。スキルを磨くなら、もう会社を辞めてフリーになるしかないな、と思いました。

下田恒幸氏

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