業界を渡り歩いた柏崎健太が語る、スポーツビジネスの基礎
「企業人人生において、転職などを通じて自分の思い通りのキャリアを積むためには、①経験した仕事の内容②務めた会社の名前、ステータス③人との出会い④タイミング⑤勇気の5点を揃えることじゃないかって、企業を渡って思うんですね。何か1つ欠けてもうまくいかないって僕は思います。あと、スポーツ選手のように社内外問わず応援される人になるってことだと思います。うまく言語化できないですけど…キャラとか」
(柏崎健太)
国内最高峰の陸上競技の名門・順天堂大学で引退するまでは陸上競技一筋だった柏崎健太さん。選手生活に終止符を打った後、オーストラリアへ留学して自分の世界を変化させます。
スポーツに傾倒するのではなく、さらに新しい世界が見たいという思いから新卒で日系大手のエンタテインメントグループ(デジタルコンテンツ、スポーツクラブ 以下K社)に入社し、ロンドン五輪、プロ野球日本シリーズ、WBCなどでのスポーツスポンサーシップ活動など様々な業務に従事し、その後、airweave、OAKLEY、NTTdocomoと4社に渡ってスポーツビジネスのキャリアを積まれています。
なぜスポーツの世界で生きようと決意したのか。そして、キャリアのスタートとしてK社へ入社した経緯、そしてそこで得たスポーツビジネスの礎となったものについて語っていただきました。
「もうそろそろ潮時じゃないか」の一言
僕は110mハードルの選手として大学に進学しました。父親が陸上の選手で、その血を継いでか昔から自分も足が速く、小学校6年生の時に日清食品カップ全国陸上競技大会で6位になって、もしかしたらそのまま陸上選手としていけるかもしれないと、単純な性格なので思ったんです。ちなみにこの大会は末續慎吾さんとか井村(旧姓:池田)久美子さんを輩出するような、登竜門のような大会です。そこで6位になれました。
そして、中学校も陸上の名門校に入りました。周りが部活選びをしている中、入学と同時に大会にエントリーされてて、僕には選択の余地がありませんでした(笑)。高校もその路線で進学し、インターハイ、ジュニアオリンピックなどのほとんどの全国大会で走る、俗に言う「全国クラス」でした。高校までは本気で五輪とかに出れるかもと勘違いしていました。バカでしたね。
大学時代に自分の周りも言っていましたが、陸上競技者はみんな超花形の100mの選手に憧れているんです。100mで勝負ができなければ物(ハードル)を置くか、200mや400mなど距離を伸ばす。あとトップスピードは上がらないけど疲れにくい人は長距離を走る、みたいな傾向がありました。
陸上界の中では、100mの選手はスーパースターです。まさに才能ですよね。ただ僕の場合は恩師がハードルの先生だったことや、ハードルをおいた方が速かったので、その道に進むことになりました。
「健太、自分の好きな100mで県の上位で終わるか、ハードルで日本一を目指すかどっちがいい?全国はいいぞ!毎回が修学旅行みたい。授業も公欠だ!」
恩師のこの一言が今も自分のアイデンティティーとなっている気がします。
選手を引退したのは大学2年の終わりです。そこは自分にとってもジャンクションで、小学生の頃から数えてちょうど10年走ったときですね。節目だったのと、昔からお世話になっていたトレーナーから「もうそろそろ無理かもしれないな…。言いづらいけど、はっきり無理だって言ってあげるのもトレーナーの仕事だ」と言われたんです。もともと重度の肉離れを繰り返していたので。
引退後はキャンパスが成田空港近くにあることもあって、視野を海外に移しました。そして、主軸をオーストラリア(ケアンズ)に置きました。ただ海外を周ったということではなく、それぞれにログやトラックレコードを付けられるレジャースポーツということでスキューバダイビングに明け暮れました。
あまり日本人が潜ったことのないところに行きたいという好奇心もあり、ライセンスをプロレベルまで上げてグレートバリアリーフ外湾に沈む世界遺産の沈没船「Yongala」にもフランス人のクルーと潜りました。選手引退後の学生生活はやり残すことの無いように、必死でした。
スポンサーシップを”リアルビジネス”に
就職活動を始めた時、実はスポーツから離れたいと思ったんですよね。なので、自分が受かった会社の中で1番事業を多くやっていながらレベルの高い大学生がたくさん入るような一部上場企業でかつ100人オーバーの内定者がいるところに入りたいと思いました。今まではスポーツに傾倒していたので、自分の人間性や視野を広げようと。ただ、もし何かあってもスポーツが自分のことを助けてくれるとも思っていたのでスポーツに絡む仕事をやっていたK社を選びました。
そこでは広報とスポンサーシップの業務をしていました。広報と言っても色々とありますが、スポーツスポンサーシップ、ブランドマーケティング、選手広報に注力しながらも、上場企業の一般的な企業広報業務をみっちり叩き込まれました。
スポーツに携わる仕事が自分にアドバンテージがあると思っていましたし、自分のスポーツへの触れ方は何かと考えた時に、トップ選手や、トップリーグとかにビジネスとして接し、その効果を企業にとって最大化する仕事が合っているんじゃないかと。取材される立場というのは選手時代の経験からなんとなく知っていたので、その反対の立場である、自分が選手として足を踏み入れられなかった超一流のスポーツの世界を、仕事として目指していきました。それが、プロモーションとかスポンサーシップ、あとは選手マネージメントの仕事に就くことでした。
広報としての駆け出しの時には地味ながらも、毎朝6時半に出社し新聞15紙に加えTVニュースのクリッピング、社内取材などもしました。あの大人気のサッカーゲームのリリースを50回書き直したこともありました。
日経ビジネスに記事を載せたり、現場の同期とニュースネタを作って日経新聞に載せるというような、結構目立つことをやっていたのですが、それが後々に実ります。グループ全体の広報GMが僕を一本釣りしてくれたんです。
その年から3年間、会社にとって2つの大きな出来事がありました。1つはプロ野球日本一を決める「日本シリーズ」のヘッドスポンサーシップです。会社と野球とスポーツゲームを一気通貫したイメージをステークホルダーに強烈に打ち付けたかったという狙いがありました。当時、会社史上最高額のスポンサーシップフィーと聞きました。貴重なタイミングにど真ん中にいました。
当時、事業とスポンサーシップを結びつけるということにメンバーで知恵を絞りました。リアルのリーグがあって、そのリアルがゲームで遊べることで野球自体を応援している会社なんだというのを紐づけるということです。
初年はソーシャルゲーム元年と言われていて、ちょうどスマートフォンが広く普及していった頃です。そのときに、とある野球ソーシャルコンテンツを作っていたのですが、日本シリーズで試合と連動型の施策を行いました。
興奮を覚えた日本シリーズのプロジェクト今、僕が働いているdocomoや他の会社がスポーツビジネスとしてやろうとしていることを、当時、キャンペーンだけでしたけどこの会社がほんの3週間ぐらいで実現していたんです。
あの時は毎日が興奮と勉強の日々でした。プロモーションはこの人、広報はこの人というように敏腕な人間だけを集めて各部署からキーマンだけをピックアップしてプロジェクトを進ました。ヘッドスポンサーすると決めてから3週間、毎日17時からミーティングするんです。当時の僕は20代後半。見習いのような形でプロジェクトに入ったのですが、本当に勉強になりました。
こういうプロモーションをかけるとこうなる、このタイミングでCM流したらこうなる、会場では…と。スポーツビジネスで成功している企業のスポンサーシップのハウツーをそこで学びましたね。
人気ゲームのキャラクターを始球式に登板させるとか、TVの野球中継の中は全て広告枠だ!という心意気でいろいろなことを考えました。
民間企業として日本シリーズにヘッドスポンサーがつくのはこの会社が初めてでした。日本シリーズは日本プロ野球界における頂上決戦で神聖なものという認識が強く、外部の団体を極力入れたがらなかったんです。だから会社所属の五輪メダリストなら良いけど、ゲームキャラクターを始球式に出すなんて何事だ、という感じでしたね。
だったら、ゲームキャラクターを3体用意してコンコースを走らせるようにしよう、バックネット裏のところに常にゲームキャラクターが見切れているようにしようとか、そういうことを考えましたね。結局、五輪メダリストのエスコート役ってことで、ゲームキャラクターと手をつないでマウンドに登場して、ボールを選手に手渡すシーンを作って、投球時には真後ろに密着するということにしました。何紙かそのシーンを掲載してくれました。してやったり!でしたね。
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