渋澤大介・モンテディオ山形強化部が目指す「J2からアジア」への道
<写真提供:モンテディオ山形>
「今はJ2で見ても、経済規模は真ん中より少し上くらい。J1に上がっても定着は難しいですが、クラブとして中長期的な視点で戦略的な取組みが出来れば必ず上を目指せます。僕がここにいる間は、J1昇格~定着ではなく、アジアの頂点を目指してやっていくつもりです」
J2リーグ・モンテディオ山形強化部の渋澤大介さんは、市立船橋高校サッカー部で全国制覇を果たし、国士舘大学へ。その後は海外リーグでプレーし、引退後はサッカー留学の斡旋や選手仲介人に従事。そして、現職に至っています。
苦労を乗り越えて掴んだ、Jクラブの強化部というポジションで、彼は何を成し遂げるのでしょうか。
(聞き手:竹中玲央奈)
どん底から這い上がり、全国制覇の立役者に
僕は千葉県柏市出身で、幼少期は柏レイソルの大ファンでした。1994年にJFLからJリーグに昇格した試合も観に行きましたし、父親は日立台(日立柏サッカー場)のゴール裏で太鼓を叩いていて。僕も年長から小学校低学年までは、ゴール裏にいたんです。
小中学校では、柏イーグルス(現・柏レイソルアライアンスアカデミーTOR’82)でプレーしていました。元日本代表や、多くのJリーガーを輩出しています。
卒業後、憧れていた市立船橋高校へ入りました。ただ、僕は一時セレクションで落ち、一般受験で体育科を受け、たまたま合格出来てサッカー部に入部したんです。
言うまでもなく部員のほとんどは推薦組です。一学年25人くらいで、一般組はたったの3~4人。紅白戦になると、一般組はスタンドで見ているだけで、途中からも出られない。全国制覇を狙っているチームなので、僕たちはお荷物なんです。分かってはいたけど、やっぱり悔しくて。この状況をなんとか打開しようと思っていました。
その中で必死に取組み、夏頃から1年生チームでの試合(現在のルーキーリーグ)で出場機会も増え、冬に3年生が引退した後はトップチームに入ることができました。
市立船橋時代<写真提供:渋澤さん>
3年生の春先まではレギュラーではなく、何とかメンバーに入れるかどうかの立ち位置でしたが、7月のインターハイ予選と関東プリンスリーグのどちらも勝てば本戦出場という試合で途中出場で結果を残し、本大会のメンバーにもギリギリで滑り込みました。本大会は全試合途中出場でしたが、4点を決めてチームは優勝。得点ランキングで2位になったんです。
この活躍もあって大会後には多くの大学からオファーが届きました。体育の教員免許を取りたかったので、体育学部があるところを探しましたが、国士舘(関東1部)から特待生の話を頂き、入ることに決めました。
特待生として進学も、中退して海外へ
国士舘大学は1学年50人くらいの大所帯で、1軍に行くと部内でのステータスがかなり上がります。ただ、僕は3軍スタート。※インディペンデンスリーグが主戦場でしたが、他大学で1年時から活躍する高校の同級生達を羨み、次第にサッカーに身が入らなくなりました。勉強も最低限のレベルしかやっていませんでした。
*※*トップチームの選手以外(セカンドチーム以下の選手)に、公式戦の出場機会を提供することを目的とした大会
特待生とは言え、親に寮費やその他の費用などを出してもらっていて、好きなことをやらせてもらっているのに、これで良いのか。そう考えていたときに、友達の兄がドイツでプレーしているという話を聞きました。
今となっては海外でプレーする日本人は珍しくないですが、当時(2009年)はかなりの少数派。海外という選択肢もあるんだなと。「お金がもらってサッカーができる」という安易な考えでしたが、競技に集中できる環境があるなら、海外に行こうと思いました。
そうこう言っている間に、大学ではトップチームに上がることができてしまって。このまま大学でプレーしたらチャンスはあるのではと考えましたが、心の中では決意が固まっていたので、大学には「海外に行きたい」と言いました。そして、大学側からは「辞めなくても良いから、とりあえず1回行って来い」と。行った先はイタリアで、1か月間の滞在期間でチームも決めることができました。そして、帰国し大学を中退し、サッカー部を退部しました。特待生なのに部を辞めることになりましたが、尊重してくれた関係者の方には感謝をしています。
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