【サッカー南葛SC 佐々木竜太インタビュー】引退から一転、現役復帰の理由 キャリア支える鹿島の「ジーコスピリット」とは
大学進学が決まっていた中、運命を変えた一本の電話。
――鹿島入団はどう決まったのですか。
高校サッカー選手権に出た時に結構テレビで取り上げてもらいまして。鹿島の社長がテレビで見て「何で地元のこんないい選手を取らないの?」と言ってくれたらしいです。その社長の一声のお陰で、鹿島から電話がかかってきたんですよ!
「もしプロとしてのオファーを受けてくれるなら、今からオファーを出す!」と言われて、二つ返事で「やらせてください!」と答えました。
実は、推薦で大学に進学することが決まっていたんです。ですが、それを親に伝えた時に「え?就職じゃないの?」って言われたことがどっかで引っかかってました。
プロサッカー選手になるって、ある意味就職じゃないですか。親の希望も叶えられるし、自分の夢も叶うし、有難い話だなと思ったのを覚えています。
――常勝チーム・鹿島に加入。どうでした?
入団したのが2006年で、2007~2009年チームはJリーグ3連覇を果たしました。チームメートはテレビで見ていた人達ばかりでしたし、シンプルにレギュラー争いがめちゃくちゃ激しかったです。
柳沢さん、マルキーニョス、深井さん、田代さんがいて、1つ上に慎三(興梠慎三)さんがいて、数年後に大迫が入ってくるんですよ。当時は、モト(本山雅志)さんや野沢拓也さんも僕と同じFWをやっていたから地獄のような環境ですよ。入団当時9番手ぐらいです(笑)。1年目は紅白戦(チーム内で行う試合)にすら出られなかったですね。
鹿島に浸透する「ジーコスピリット」
――鹿島といえば、ジーコスピリット※に代表されるストイックさや、球際の激しさ等、高いプロ意識を持ったチームというイメージがありますが、日々のトレーニングの雰囲気はどうでしたか?
クラブハウスに入った時や練習の雰囲気からピリッとしてましたね。
僕も試合に出たいという気持ちから、練習では満男(小笠原満男)さんにかなり激しくガツガツ攻めていた時期もありました。その場では何も言われないけれど、次のプレーでしっかり倍返しですね。ただそこに悪意は全くなくて、「負けないスピリット」がチーム全体に根付いていたように思います。
――出てくる名前がレジェンド過ぎて(笑)。影響を受けた人はいますか?
岩政さんやモトさんには結構アドバイスをもらいましたね。他はみんな「背中で感じて成長して来い!」という感じでした。
※=鹿島アントラーズの創設期に選手として活躍したジーコが根付かせた「献身、誠実、尊重」を大事にする精神
引退から紆余曲折の末、選手に復帰。それは、「やっぱりサッカーが楽しかったから」。
――鹿島、湘南ベルマーレを経て、2012年に栃木SCへ移籍した時はどうでしたか。
練習環境の違いに順応するのは大変でした。練習着も自分で洗濯しないといけないですし、インナー類も自分で用意していました。
しかも毎日練習するグラウンドは変わるし、どのグラウンドも自宅から30~40分のところで、一度場所を間違ったら確実に遅刻(笑)。人工芝での練習も初めてで、足への負担も凄かったです。とにかく、鹿島や湘南とのギャップは凄かったですね。
――(栃木SCへの期限付き移籍満了と同時に)鹿島との契約満了後はどのような流れで引退を?
ここからは結構波乱です。まず、MLS(アメリカ・カナダのプロサッカーリーグ)の「FCダラス」の練習に参加しました。契約できるかも? というところで、プレミアリーグ(イングランドのプロサッカー1部リーグ)から来た身長188センチのFW選手が入ることになり、押し出されてしまいました。
このタイミングで一旦区切りをつけようと引退し、その後知り合いのツテで就職先を探して、サッカー系の事業をしている会社に就職しました。
――そこからなぜ現役復帰することになったのですか?
働いている会社で「HBO東京」の業務委託を受けることになったんです。若い選手の練習を僕が見て、育てて、海外に行かせるという事業で、コーチ兼選手という形で週末の試合だけ出てました。
その後、岩政さんに誘われて「東京ユナイテッドFC」で選手として復帰しましたが、2018年に岩政さんが引退したタイミングで僕も一緒に辞めました。
ただ、1年プレーしたらやっぱりサッカーが楽しくて火がついちゃいました。どこかプレーできるチームがないかと探していたところ、知り合いを介して「南葛SC」(以下、南葛)のGM岩本さんと会い、加入することになったんです。
南葛1年目は元々いた会社で仕事をしながらプレーをしていたので、週1~2回しか練習に行けていませんでした。にも拘わらずチームで一番点を取っていたこともあり、岩本さんから「南葛にフルコミットしてやってくれないか」というオファーをいただき、転職しました。
これからもPFC-FD™にはお世話になります
――2022年、膝の治療に「PFC-FD™療法」を受けられましたが、その時はどんな状態だったのですか。
2022年10月に膝の内側側副靱帯を損傷し、2日後に「メディカルベース新小岩」に行って、そこで初めて「PFC-FD™療法」を受けました。
1回目の治療は、怪我が酷くて痛みが強い時に打ったからか、注射自体の痛みがかなりありました。ですが2回目の注射は全然痛くなく、しかも打った直後に曲がらなかった膝が曲がるようになって驚きました。
内側の不安定さかなり軽減されたので、本当に助かってます。これからもお世話になります(笑)。
葛飾といえば南葛SCがある町、南葛SCがある町といえば葛飾。
――今後の抱負を教えてください。
南葛を鹿島みたいなクラブにしたいと思っています。『葛飾といえば南葛SCがある町、南葛SCがある町と言えば葛飾』のような感じで。
なので、もっと地域に根付いていきたいと思ってます。葛飾は下町情緒が溢れるエリアなので、なんとなく「フロンターレっぽい町」らしいです。楠神順平がそう言ってましたよ。
僕が加入してからの5年間で色々なものが変わりました。社員選手も増え、寮ができて、ユースができて・・・。稲(稲本潤一)さんが入ってきた時は、これまでになかったくらいパートナーに関する問い合わせが増えました(笑)。
ですが、それでもこのカテゴリーは過酷です。関東サッカーリーグ1部の先には、JFL(日本フットボールリーグ)昇格に直結する『全国地域サッカーチャンピオンズリーグ』が控えます。この大会の1次ラウンドは3日で3試合、決勝ラウンドは5日で3試合。今シーズンはここを絶対にクリアして、必ずJFLに行きたいですね。
その先にあるのがJ3リーグ。南葛がJリーグに昇格する姿は見届けたいと思っているので、まだまだ僕も頑張ります。将来的に、ACL(アジアサッカー連盟が主催する、クラブチームによるサッカーの大陸選手権大会)に出られるようになったら、さらに面白くなるでしょうね。
――最後にサポーターの皆さんに向けてメッセージをお願いします。
南葛には僕のように業務をやりながらプレーをしている社員選手が20名ぐらいいます。日々の営業活動を通して、地域の人やサポーターの方々に会う機会が凄く多いので、皆さんにも選手やクラブのことを身近に感じてもらいやすいかなと思います。
仲良くなった選手が試合で活躍するとまた楽しみが増えると思いますし、そういった意味でもぜひ会場に足を運んで、試合の雰囲気を感じてもらいたいです。皆さんにもっと南葛SCのことを身近に感じてもらえるよう、これからも地域活動を続けていきたいと思ってます。
僕自身も至らないところがたくさんありますし、クラブもまだまだ成長過程なので、ぜひ皆さんと一緒に成長していければと思います。引き続き宜しくお願いします。
インタビュー後記
今回は、僕自身がすごく気になる鹿島の事をたくさん聞きました。Jリーグを代表するクラブで学んだことを、今のクラブ運営に還元しているのだなと強く感じたインタビューでした。今後の南葛SCに期待です!
記事提供:セルソース
https://note.cellsource.co.jp/n/n0a6e8b6bfd72
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