“奇跡”を経験した松原良香。セカンドキャリアはサッカーへ恩返しをするために
高校卒業後、すぐに南米・ウルグアイでプレーし、その後は逆輸入選手としてJリーグのジュビロ磐田、清水エスパルスなどで活躍した松原良香は再度海外移籍した後に地域リーグにも所属するなど、豊富な経験の持ち主だ。1996年アトランタ五輪の際にはU-23サッカー日本代表として(※)「マイアミの奇跡」を経験されているメンバーの1人でもある。2005年に引退後はFELICEサッカースクールを立ち上げ、2009年には日本と海外の架け橋となり、国際人の育成をしていくことを目的としたFELICE MONDO株式会社を設立。また、解説などの仕事をしながら、競技の普及・発展や選手の育成に務めている。
※マイアミの奇跡:1996年アトランタ五輪、グループDに入った日本が優勝候補のブラジルを1-0で破ったこと。当時の監督は西野朗氏、コーチは山本昌邦氏。松原さんは背番号16で後半41分に城彰二選手と交代で途中出場した。
ウルグアイでのプレーを経て、Jリーグへ
-まず初めに、松原さんはウルグアイでプロ選手としてのキャリアをスタートさせています。その経緯について教えてください。
当時、日本は国際舞台に立つことができず、メキシコ五輪以来、世界的な大会には出られていませんでした。僕が高校生の時もあと一歩のところまで来るものの、出られていなかったんです。それで(※)西野朗さんと(※)山本昌邦さんが世界を目指すということをキーワードに動き出していました。
一方で僕は高校卒業後、特待生で大学に一応進学することになっていましたが、実は3日で辞めているんですよ(笑)僕自身は元々行きたくなかったのですが、周囲に行っておけと言われて、仕方なく入ることにしたものの、自分で決めたことではなかったので、もう一度考え直して辞めることにしました。当時は周りの人に迷惑をかけました。本当に申し訳なかったです。
※西野朗氏:元サッカー選手で指導者。Jリーグ・名古屋グランパス現監督。現役時代は日立でプレー。「マイアミの奇跡」時にU-23日本代表を率いた他、柏レイソルやガンバ大阪の監督を歴任。
※山本昌邦氏:元サッカー選手で指導者。現在は解説者も務める。現役時代はヤマハでプレー。U-20、U-23日本代表やジュビロ磐田の監督を歴任。
-しかし自分自身でこれからの道をしっかりと考えるというのは重要なことだと思います。
それで大学を辞めて、これからどうするか考えていたところに(山本)昌邦さんが声をかけてくれました。自分なりにJクラブに売り込みにも行っていましたが、時期も悪く、大学を3日で辞めている僕を誰も獲ってくれません。そこで当時ヤマハにいた昌邦さんが、行くなら世界だぞ!と話してくれて、紹介されたのがウルグアイのペニャロールというクラブでした。
-まだ当時は海外挑戦も珍しく、行くには勇気が必要だったのではないでしょうか。
そうですね。自分の実力を試したいということももちろんありました。でも実は元から海外には縁があって、まず、祖父が20代でアルゼンチンに移住をしていました。仕事で行った先のブエノスアイレスに住み、日本にいた恋人をそこに呼んで結婚したんです。
そして僕の3つ上の兄(※松原真也氏)もサッカーで留学をして、そのままアルゼンチンでプロとしてプレーをしていました。
身近にアルゼンチンに行った人がいて、1986年のW杯でマラドーナの5人抜きを目の当たりにし、カズさん(三浦知良選手)が凱旋帰国して出た試合を追いかけたりもしていたので、南米に行くためのベースは僕にもあったということです。
あとは西野さんや山本さんが言ったようにうまくなって世界大会に出る、という、自分のやりたいことに対しての強い信念が突き動かしていったというのはあると思います。日本代表として国際大会に出るために頑張ってここで活躍する、という強い気持ちを持っていたので、たくさん嫌な思いはしましたが、乗り越えることができました。
※松原真也氏:松原良香さんの兄で、元サッカー選手。アルゼンチン・CAティグレ、Jリーグ・清水エスパルスでご活躍。引退後、現在は株式会社アズゥーリ代表取締役としてスクール等を指導・運営している。
-ウルグアイでの実績を残したことがその後ジュビロ磐田へ加入することにも繋がったということでしょうか。
元々磐田に戻るということは言われていました。僕が帰ってくる年には磐田とペニャロールのプレシーズンマッチも既に組まれていましたからね。日本に戻ってきた僕が磐田の選手として、ペニャロールとの試合に出るわけですから、興行的な狙いもあったと思います。
-それ以降、長年Jリーグでプレーすることになるわけですが、昔と今を比べて感じる盛り上がりの差というのはありますか。
全然違いますね。以前の方が日本におけるサッカーの価値は高かったように思います。代表選手やJクラブ、試合に出ること、すべてにおける価値が高かった。
今海外のトップレベルで活躍しているネイマールやオスカルといった選手がU-17だった頃に、日本選手達は接戦を演じています。しかし、あれから6~7年経って、宇佐美や柴崎といった彼らと同世代の選手を比べると現在の立ち位置に大きな差が出てしまっています。
-そうなると育成の部分に問題があるのでしょうか。
それもあるでしょうね。育成というのは一つひとつの積み重ねの上に成り立つものです。しかしそれもただ毎日を積み重ねればいいわけではなく、今後どうなっていきたいのか、という想いがそこにあって初めて形になっていくものだと思います。
指導者は背中で見せる存在にならないといけない
-松原さんは国内外、様々なチームに所属されてきて、日本と海外のどのような点に違いを感じ、変えていくべきだと思いますか。
たくさんあり過ぎます(笑)でも今育成という言葉が出たので、指導者の話をします。
育成=人を育てるということなんです。サッカーを指導するのではなく、人を育てること、つまり教育です。しかしそこを間違えている指導者が多いわけです。ピッチ上でその選手だけがうまい、うまくないということではなく、サッカーを通した、人と人との結び合いを理解していく必要があります。たくさん得点を取る選手がいれば、そこにはいいパサーがいますし、失点の少ないキーパーがいれば、いいDFがいるものです。そういった一人ひとりの選手が他の選手と密接に関わり合って集合体となり、チームは成り立っています。指導者はそこを見なければなりません。
そして育成年代においては挨拶や整理整頓などを含めた人間的な部分も育むことが大切になってきます。
あとは親の子供に対するスタンスです。親が何でもしてあげるのではなく、子供が自分自身で解決することで自立させていくというのが指導において一番大切なことです。子供が苦しい時に親が出ていって、監督・コーチに対して口出しをしたくなる気持ちも分からなくはないですが、あえてそこは乗り越えるのを見守ってあげるということも育成においては重要なのではないでしょうか。
-サッカーに限らず、すべての競技において言えることもかもしれませんね。特に体罰などが問題視される現代における指導者の難しさもあると思います。
僕が手を出すことは絶対にありません。背中で見せるということが大切ですよね。例えば僕が子供の頃にスタジアムに行ってカズ(三浦知良)選手が格好いいと思って、真似をしたように、指導者もそういう存在にならないといけません。結局どういうチームに人が集まるかというと名物コーチや名物監督がいるところにみんな集まります。
もちろん変えなくてはいけないのはそれだけではありませんけどね。メディアが選手の意図しない形で世の中に情報を発信してしまったりもしましたから。特にアトランタ五輪の時はそうでした。そのせいで選手も口を開きにくくなっていったんです。
-メディアの大きな力によって、我々が選手に対して誤解している部分もたくさんあると思います。
選手が実力で結果を勝ち取ったなら、大きく取り上げてあげるべきだと思いますが、これからこの選手がチャンピオンになる“かもしれない”というような段階の選手まで、大げさに取り上げ過ぎです。いくら話題になったとしても、まだ何も成し遂げていないわけです。その選手の今後のことも考えて、メディアもプロ意識を持って、正しく盛り上げて欲しいなと思います。
-現役時代を通して一番印象に残っていることを教えてください。
やはりアトランタ五輪の代表の時のこと、当時の仲間のことは思い出します。ほぼ初めて世界大会に出る選手ばかりだったので、純粋に相手に勝つということを目指していた気がします。
日本がブラジルを破ったということは事実です。偶然だという人もいるかもしれませんし、僕らもよく勝ったな、と思うところもありますが、必然だった部分もあったと感じています。僕がウルグアイ時代の苦しい時期を乗り越えたり、86年のW杯を目の当たりにしたりしたことも関係あったでしょう。だから1年や2年の頑張りでできたことではなかったと思うんですよね。
-現役で長くご活躍されてきた中で、引退を決意した要因というのはどういったところにあったのでしょうか。
やはり「代表」というのが1つ自分の中で大きな存在でした。自分が代表に入れない、トップレベルでできない、と感じたことがプレーヤーとしての情熱を冷ましていきました。反面選手としての経験を次に活かしてやるぞ!とセカンドキャリアに対しては前向きだったように思います。ただ、引退してからもやはりプレーをするのは楽しいですね。
-国内外でプレーされていたというのもセカンドキャリアに大きく影響していそうですね。
そうですね。いろいろな経験ができましたし、スペイン語やポルトガル語などの他の言語を覚えることができたというのも大きかったです。ウルグアイ時代に一緒にやっていた仲間が世界各地で今もサッカーに関わって活躍しているというのも仕事の面で役立っています。
今考えると高校卒業後にそのままJリーグに入っていなくてよかったですね。
-引退して一歩引いた視点でサッカーが観られるようになった部分もあるのではないでしょうか。
実際、引退してから点を取るコツが分かってきました(笑)サッカーを多面的に見られるようになったからだと考えています。ゴールの奪い方がしっかりと分かるようになりました。それを今なら伝えられると思います。
-松原さんはJリーグの選手OB会の副会長も務められていますが、具体的にはどういった活動をされてきたのでしょうか。
一番は「サッカーへの恩返し」です。基本的に代表選手も初めはJリーグに所属する経験をして、ステップアップしていきます。だから選手によるJリーグやサッカーに対する恩返しのための活動の場を提供しています。
あとは代表・チームの強化、育成・ユース、指導者養成、競技の普及を掲げる協会の動きに協力していくという目的があります。その中でも特に普及活動が多いです。地方で普及活動をやりたくてもできない場合、それを代わりにOB会が開催したり、OB試合をやったりしています。
他にも元選手が人数の関係で指導者ライセンスを受験できないという問題があったりするので、それを解決するために資格のインストラクターを育成するような取り組みを行っています。
-選手のセカンドキャリアの問題においてもそこは重要な課題ですね。
一部のJ3の選手の給料は数万円で、住む場所だけを与えられたりして、プレーを続けているわけですが、結局引退してからは行く道がありません。それでは夢がないですよね。例えばその後に学校の先生になって指導者になれるような仕組みを作っていきたいところです。ただOB会もボランティアでやっていることなので、できる範囲は限られてきてしまうという実情もあります。
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