「ビーチサッカーが僕の全て」日本を心から愛する茂怜羅オズが東京ヴェルディと共に目指すもの

FIFAビーチサッカーワールドカップロシア2021で、日本代表が史上初の銀メダルを獲得したことは記憶に新しい。その中心にいたのが、選手兼監督の茂怜羅オズだ。

世界トップクラスの実力者である彼は、なぜ環境が良いとは言えない日本でのプレーにこだわるのか──。

東京ヴェルディとの出会い、自らが立ち上げたビーチサッカークラブへの思い。母国から遠く離れた日本で、ビーチサッカーに人生を捧げる男の物語がそこにはあった。

■クレジット
取材=北健一郎
文=渡邉知晃
写真=東京ヴェルディクラブ提供

■目次
東京ヴェルディとの出会い
辞めようと思った1年目の終わり
練習しながら練習場を探す日々
厳しい環境の日本でプレーし続ける理由

東京ヴェルディとの出会い

──オズさんが東京ヴェルディクラブに入るきっかけは?

茂怜羅オズ(以下、オズ) 以前から個人契約をしているアスレタの丸橋一陽社長がヴェルディ好きで、何度も一緒に試合を観に行きました。私も、日本にくる前からラモス瑠偉さんやビスマルクが所属していたので知っていました。その当時、丸橋社長が「ヴェルディを紹介するよ」と言ってくれたのが最初です。

──それからすぐにビーチサッカーチームが立ち上がった?

オズ 「こんなに早くできるのか」と思うほど、あっという間に立ち上がりました。2017年にヴェルディが沖縄で合宿をしていて、丸橋社長に「明日、沖縄に来てくれ」と言われて、その時の​羽生英之会長とお会いしました。次の日には電話で「ヴェルディからビーチサッカーチームを立ち上げる許可が出たよ」と言われ、あまりのスピード感に驚いたことを覚えています。​

──チームを立ち上げてから、ご自身で選手を集めるなどチーム運営をされているのでしょうか?

オズ そうですね。最初からクラブの代表兼監督兼選手という形でずっとやっています。

──3足の草鞋をはくのはすごく大変だと思いますが、やってみていかがでしょうか?

オズ 監督と選手の兼務は大変ですが、以前のクラブでも経験していたので慣れていました。しかし、クラブの代表は全く経験がありません。クラブを支えること、会社を作ることなど、全てがわからないことばかりで色々な方に相談しました。立ち上げ当初から今も一緒に仕事をしているマネージャーの篠原千賀子さんには、事務仕事をサポートしてもらっています。ヴェルディが活動できているのは、彼女のおかげです。

──クラブ運営をしていくためには、スポンサーの獲得が必要になると思いますが、営業もされているのでしょうか?

オズ 営業も含めて、立ち上げから全てを自分でやっています。どういう選手を獲得するかも自分で考えています。練習場についても、今は立川にホームグラウンドを持っていますが、以前は毎回、練習場を探していました。サポートしてくれるサプライヤーやファンの拡大も、全て篠原さんと一緒にやってきました。

──3足の草鞋どころか、社長からGM、営業、監督、選手と5つくらいの仕事をこなしている感じですね。

オズ そうです(笑)。細かく分けるともっとやっているかもしれません。

──選手としては、30歳を過ぎて周りの選手に教えたり、後輩を育てたりする役回りが強くなってきたのでは?

オズ それはあります。どうしても監督をやりながらだと、気持ちはあっても選手として100%ではできません。ただ、私は教えることも好きです。クラブの若手を育てて、日本のビーチサッカーを強くしたい思いを持っています。ヴェルディは、日本一のモデルチームです。力のある若い選手を発掘して、高いレベルの練習をすることで、代表入りを狙えます。それによってヴェルディの強さを維持することも可能になります。

辞めようと思った1年目の終わり

──スポンサー探しもご自身でされているとのことですが、苦労も多かったのでは?

オズ みんなビーチサッカーのことを知らないですし、私自身も日本語がわからない。営業のやり方もわからなかったので、とても難しかったです。いろいろな人にアプローチをしてみたのですが、繋がりがないので、話を聞いてくれないところもありました。

スポンサーが見つからないとお金がない。クラブとしても苦しい時期だったので、遠征費は自腹でした。プロになって、初めて自分のお金でプレーするなど悔しい思いをしていました。新幹線代を自分のポケットから捻出する。ずっとビーチサッカーをやってきて、今このタイミングでお金を払ってプレーすることに違和感がありました。

──1年目はとても苦しい時期を過ごしてきたんですね。

オズ 苦しかったですが、新しいことに挑戦している1年目なので当たり前なのかもしれません。実際に、あの辛い気持ちがあったから、反骨心で出場した全ての大会で優勝することができました。結果を残せたので「2年目は新しいスポンサーが見つかるだろう」と思いました。

しかし最初のシーズンが終わったタイミングで、半数の選手が辞めていきました。私としては、モチベーションはありましたし、選手のために少しずつでも環境を良くしたいと思っていた矢先の出来事。強いチームを作るために全国から集めた選手たちの半分がチームを去り、あまりのショックに「続ける意味があるのか?」と悩みました。

──オズさんも辞めることも考えた?

オズ 考えていました。海外でプレーをして、お金を稼いでから日本に戻ってこようと思っていました。日本で暮らしたという思いは持っていたので、引退後に日本に戻ろうと思っていました。

──オズさんの実力からすると、海外からも色々なオファーもあったのでは?

オズ 実際にオファーはありました。ここでやっても意味がない、海外じゃないとお金が稼げない。それなら辞めて海外に行こうと思って、家族にも相談しました。でも、ずっとアスレタさんに可愛がっていただいて、こういうチャンスを与えてもらいました。それなのに1年で辞めていいのかと葛藤がありました。

それに残ってくれたメンバーに申し訳ないなと。今もキャプテンをしている河合雄介とか齋藤潤、川口敬介とか、私を信じているメンバーに返せる何かを作りたい。彼らだけでなく、サポートしてくれる人たちにも恩返しがしたい。そう思ってからは「来年も頑張ろう」と思えるようになり、もう一度スタートしました。

練習しながら練習場を探す日々

──再スタートを切ってからも練習場の確保など苦労は続いたのでは?

オズ 練習場については、本当に大変でした。元々平塚で練習する予定だったのですが、平塚には湘南ベルマーレがあります。ベルマーレはビーチサッカーチームを持っていませんが、大会は開催していました。その関係で「ここで練習をしないでください」と言われて練習場所を失いました。

その後は、後藤崇介選手が横浜に経営する自分のグラウンドを持っていたので、横浜F・マリノスや横浜FCに許可をもらって、そこを使うようになりました。しかしここも「1年だけ」の契約だったので、それ以降は練習をしながら次の練習場所を探している状況でした。

──そんな苦労の末に今の練習場である立飛ビーチを見つけたんですね?

オズ いろいろなところに行って話をしたのですが、なかなか見つからず。そんな時に、たまたま立川を訪れた際にモノレールから立飛ビーチを見つけたんです。すぐにそこの社長に連絡をしてみると「営業時間外の朝8時から10時だったら使用可能」と言われました。

私たちは仕事をしながらプレーをしています。いつも朝から練習をして、その後に仕事へ向かいます。貸してもらえる時間帯は、ちょうど私たちが練習していた時間帯だったので、ここしかないなと思いました。途方に暮れているところに、神様からプレゼントをもらったような気持ちでしたね。

最初の頃は、設備が何もなくて砂浜だけがある環境でした。防球ネットもなかったので、シュートしたボールがそのまま道路に飛んでいってなくなってしまうこともありましたね。でも半年くらいで、公式戦のピッチを作っていただきました。

──日本一になるようなチームでも、環境面での難しさを抱えている現状が今の日本ビーチサッカーを表しているように思えます。

オズ ビーチサッカーをプレーできる場所は、とても少ないですね。実際に、私たちが立飛で活動を始めたことをSNSで紹介したら、関東の他のチームから「立飛ビーチで練習したい」というメッセージがきました。それくらい、ビーチサッカーをプレーする選手たちは場所を求めています。

私たちは運よく立飛ビーチで活動ができるようになり、いろいろな面が好転しました。例えば、スクール事業。JリーグやFリーグ(フットサル)のチームは、自分たちで使えるホームグラウンド(アリーナ)があります。そこでスクールやクリニックを行なうことで、収益を得ている。

ビーチサッカーではヴェルディが初めてそれを実施し、今では他のチームもそういう活動を行なうようになりました。自分たちでそういう環境を作ったり、あるいは行政にお願いして場所を借りることができるようになったりと、環境は少しずつ変わってきています。

私たちは結果を残すことが大事です。それと同時に、モデルチームとして、海外のチームのレベルを目指しつつ、海外以上の環境を日本に作りたいと思っています。ヴェルディが先駆けてやってきたので、他のチームの参考になっていると思います。

厳しい環境の日本でプレーし続ける理由

──まだまだビーチサッカーの環境が整っていない状況ですが、オズさんはなぜ日本に来てビーチサッカーをしようと思ったのですか?

オズ 1番の理由は、元ブラジル代表で10番を背負ったジョルジーニョの言葉でした。私がプロになって初めての大会で優勝した時に「強いチームで優勝することは当たり前。小さいチームで結果を残したら、今まで頑張った意味を一番感じられるんじゃないか」と言われました。

なるほどなと。ブラジルのような強いチームでプレーしていると、勝利が当たり前になっている。でも海外の知らない場所、知らない言葉のなかでプレーし、結果を残した時の達成感は何事にも変えられないと思いました。

それからはヨーロッパでのプレーを目指していたのですが、そのタイミングで日本から声がかかりました。「オズと一緒にプレーできれば、日本のビーチサッカーは変わる」という声をいただいて「この挑戦は面白そうだな」と思い日本行きを決めました。まさか日本から招待されるとは思っていなかったですね。

──ビーチサッカー後進国の日本にやってきて、日本代表としてプレーするようになったオズさんは、FIFAビーチサッカーワールドカップ パラグアイ2019でゴールデンボール(MVP)を獲得しました。それほどの実力がありながら、なぜ自腹を切ってでも日本でプレーし続けているのですか?

オズ 本当に日本のことが好きなんですよね(笑)。「日本のどこが好き?」と聞かれ、何か具体的に答えるのは難しいですが、日本には安心感があります。生まれ育ったのはブラジルですが、日本で生まれたような感覚。ブラジルに帰って家族と会っていても、1週間で日本が恋しくなりますね。

日本への愛情は大きいです。日本に来て、いろいろな方からのサポートがありました。感謝していますし、恩返しがしたいと思っています。

それにビーチサッカーが僕の全てです。ここまで大変なことも多かったですが、大好きな日本、大好きなビーチサッカーのために戦いたいと思っています。

──選手として、監督として、クラブの代表として、今後の展望はどのように考えていますか?

オズ 選手としては一貫していて、ワールドカップ優勝です。トロフィーを掲げて日本に恩返しすることを目標にプレーしています。

ヴェルディについては長い目で見て、私が関わらなくなったとしてもずっと強いクラブであり続けてほしい。そうなるために、将来的には初のプロチームにしたいと思っています。クラブとして海外に挑戦し、世界一のクラブになりたいですね。他には日本のトップリーグを設立したいと思っています。

──たくさん目標がありますね。

オズ たくさんの目標があって、その全てが成功するかわかりません。ただ、サポートしてくれる人がたくさんいますし、自分は一人じゃない。

一緒にプレーしている18人の選手もいますし、スタッフも含めると25人のヴェルディファミリーがいます。色々な競技を混ぜて“ヴェルディファミリー”としてさまざまなスポーツを盛り上げたいなと思っています。みんなで力を合わせることで、みんなが強くなる。色々な競技の距離を縮めてヴェルディの名前をトップに導きたいですね。

■プロフィール

茂怜羅オズ(もれいら・おず)

1986年1月21日生まれ。2007年に初来日し、2012年に帰化。その後はバルセロナを含む海外クラブでの挑戦を経て、2017年から東京ヴェルディビーチサッカーに加入。選手兼監督兼代表として活躍している。ビーチサッカー日本代表としても活躍し、2019年の FIFAビーチサッカーワールドカップでは大会MVPに輝いた。選手兼監督として臨んだ2021年のFIFAビーチサッカーワールドカップでは日本を2位に導いている。

■東京ヴェルディクラブの挑戦

 

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