
体育を赦し、スポーツと和解する。御田寺圭コラム
『白饅頭note』の著者であり、有料noteにも関わらず57,000以上のフォロワーを持つ御田寺圭(みたてら・けい)さんの連載コラム第二回。
今回のテーマは「体育を赦し(ゆるし)、スポーツと和解する」です。
「感動を与えたい」、「勇気を与えたい」。アスリートのこういった発言に強い反発心を向ける人がいることをご存じでしょうか?
御田寺さんは、その淵源(えんげん)に学校教育の『体育』による苦い経験があるといいます。そうしたスポーツ嫌いの人びとの思いに触れ、本来のスポーツのあり方について綴っていただきました。
■クレジット
文=御田寺圭
■目次
「感動や勇気を与えるスポーツ」への違和感
「感動を与えたい」「勇気を与えたい」
──マイクを向けられたアスリートたちは、しばしばこのように述べる。
実際のところ、彼らの頑張りに対して心打たれる人は少なくない。
自分にはとうてい成しえない偉業、計り知れない努力が結実したその瞬間に居合わせたとき、言葉にはできないほどの力を分けてもらえたり、日常では味わえない高揚感を味わえたりする。
あるいは、自分が偉大なアスリートと同時代人であること、同じ国に生まれたことを誇らしく思ったりする人もいる。
……だが、そうならない人もいる。
アスリートたちから感動や喜びや勇気を受け取るどころかむしろその逆で、彼らのこうした言動に強い反発心を向けることもある。
「感動を押し付けようとするな」「勇気の押し売りをやめろ」と。とりわけSNSでは、アスリートが異口同音に表明しがちなこの「感動」や「勇気」に対して辟易する人の存在がはっきりと可視化される。
ただし彼らの多くは(彼らからすれば「無神経」な言動を取っているように見える)アスリート個人のことが嫌いなのではない。スポーツのことが嫌いなのである。スポーツが「すべての人に勇気や感動を与える」ものとしての地位をいつのまにか獲得していたことに、まったく同意できないからだ。
なぜ同意できないか。
そうした人びとの「スポーツ」の原風景は、学校教育における「体育」だからだ。彼らのなかでは学校教育における「体育」と「スポーツ」が往々にして強く結びついているからこそ、スポーツが勇気や感動を、あるいは連帯感や誇りを与えてくれるものであるという、誰もがなんとなく合意しているその前提に諸手を挙げて賛同できない。