フローラン・ダバディは、なぜテニスの世界に飛び込んだのか? 

フローラン・ダバディ。2002年日韓W杯でサッカー日本代表を率いたフィリップ・トルシエ監督の通訳として、一躍有名となった人物です。同W杯後には契約終了とともにサッカー協会を離れ、数々のスポーツ大会のキャスター、ラジオのナビゲーターなど数々の仕事をこなしているダバディ氏。現在は、その幅広い知見を活かし、テニス界に躍の場を移しています。

ダバディ氏のこれまでの人生におけるテニスの存在、そして現在の日本テニス界に対してどのような役割を担っていきたいかなどを語って頂きました。

10代の頃から語学力に長けていた

僕は高校時代から語学が得意でした。英語、スペイン語、ラテン語と。そして、大学が終わったらもっとレアな言語に挑戦してみたいと思い、日本が好きだったこともあり、日本語を学ぶ決心しました。食事をはじめとした日本文化に興味があり、映画や文学にも触れましたね。

フランス国立東洋言語文化学院で日本語を学んだのですが、成績もすごく良かったのです。「日本と関わるような仕事をしたい」と初めて思いました。そのタイミングでフランスの出版社が創刊する日本の雑誌のインターンシップに応募したのです。

正確に言えば当時はまだフランスに兵役があり、海外のフランス企業で働くプログラムがありました。給料の一部を国に戻せば軍隊は免除されると。それを見つけたから行ったというのはありますね。

僕が上記の大学で日本語を勉強していたとき、日刊スポーツから声がかかったのです。98年のフランスW杯中に、サッカー以外も、現地感が出る色々な記事を作りたいという。通訳とネタ集めをしてもらう学生をアルバイトとして探しており、その仕事が僕に回ってきました。

W杯が終了して3、4ヶ月後に、例のハースト婦人画報社の仕事が決まりました。そしてちょうど、トルシエ監督の就任が決まったのも98年の10月だったのですが、そのタイミングで私とパリにいた日刊スポーツの記者から『JFAが監督の通訳を探している』という電話がかかってきました。

トルシエさんはどうも、フランス人の通訳が欲しかったようです。『なかなか見つからないからあなたはどう? 』と誘ってくれたわけです。そこから履歴書をJFAに送り、面接を通って、選考を通って通訳となりました。

トルシエジャパン後、なぜテニス界へ?

日本代表の通訳を辞めて半年後、今の日本テニス協会の強化本部長である福井烈さんが実はサッカー好きということもあり、私のことを知っていたんですよ。私がサッカーだけじゃなくてテニスも好きだということも知って、『ぜひ私の連載にゲストで登場してください』と言われたんです。4ページに渡って私が登場したのですが、それを見たテニス関係者はびっくりしていましたね。たまたま、WOWOWのプロデューサーもその記事を読んでくれたんです。当時はちょうどWOWOWがテニスを放映して10年経ったときで、単に中継をするだけでなく、タレントさんを呼んで応援団長のような立ち位置の人を欲していました。その1人としてアナウンサーの進藤晶子さんが決まっていたのですが、もう1人欲しかったようで、他の人を色々と探していたんです。ただ、日本の芸能人でテニス好きが全くいなかった。当時は錦織選手が出て来る前だったから、テニスがマイナースポーツになりつつあったんです。

そこでプロデューサーが『今サッカーで知名度を上げたダバディはテニスが好きだから、ギャンブルだけど彼を招いたら面白いのでは? 』と思いついたわけです。2004年の全仏オープンテニス、ローラン・ギャロスで特番を組んでもらい、出演をしました。その翌年から進藤さんの相棒として番組のキャスターに抜擢され、今年は13年目です。

フローラン・ダバディ氏、ステフィ・グラフ氏

ロンジン・アンバサダー・オブ・エレガンス、あのステフィ・グラフ氏と一緒に

<写真提供:サニーサイドアップ>

今の仕事の割合は、7割がテニスで3割がサッカーですね。サッカーはDAZNでフランスリーグの解説をし、たまにハリルホジッチ日本代表監督の通訳を担当するくらいですね。

僕は6歳くらいからテニスとサッカーを同じタイミングでやり始めたんです。親と兄が強かったのでそれについていった感じですね。週に2回くらいのペースでやっていました。中学生〜高校生の時はサッカーに夢中でした。

大学に入るときにアメリカへ渡ったのですけど、W杯が開催される前で不毛の地となっており、サッカーは全くメジャーではなかった。加えて、僕の寮の下にテニスコートがいっぱいあったこともあり、6週間ぐらいテニス漬けになり、再びテニスへの情熱が戻ってきたんです。このロスの大学のコートで現役時代の松岡修造さんに初めて出会い、日本人街のレストランで一緒に食事をしました。ちょうど22年前ですね。そしてその翌年に僕は文科省の奨学金を得て日本にやって来ました。静岡大学に通っていたのですが、テニス部に入れてもらいました。当時のキャプテンにすごく良くしてもらったんですよ。

普通、1年生はボール拾いをしなければいけないのですが、僕は1年間だけの留学生だから免除されました(笑)。そこでまた1年間、テニス漬けですよ。1年半後にサッカーの仕事でまた日本に来ることになり、最初に話したようにW杯が終わってWOWOWの仕事がきて…という妙な巡り合わせですね。

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