【テキスト版】CROSSOVER「スポーツコンピテンシー」深堀圭一郎×岡崎朋美
スラップスケートに慣れるため男子選手と練習。直線番長を返上し長野五輪でメダルを獲得!
深堀:岡崎さんは、1994年のリレハンメル五輪に出場されて、500mで14位という成績を残されました。このオリンピック出場で心境の変化はあったのでしょうか?
岡崎:(橋本)聖子さんがこのオリンピックを最後に引退するのでは、という雰囲気を感じていました。私はずっと「同じ舞台に立ちたい」と思っていたので、すごくうれしかったですね。とはいえ、私が出場したことで、聖子さんが500mを滑れず「申し訳ない」という気持ちもありました。オリンピック終了後は「自分が引っ張っていかなければ」という責任も強く感じるようになりましたね。
深堀:目標になる先輩がいると「やりやすい」部分がありますよね。そんな存在がいなくなったときに、高いモチベーションを維持しながら結果を残すのは大変だと思います。
岡崎:当時、4年後の長野五輪という目標が見えていたので「メダルを獲らなければ」という衝動に駆られていました。実践すべきことも数多くあり、1年ごとに成長していきたいと考えていましたね。
深堀:岡崎さんは、全日本スプリント選手権でトップに立ったのも、ワールドカップ初優勝も25歳だったと伺いました。スポーツ選手としては遅咲きの印象なのですが。
岡崎:スピードスケートは、技術が非常に求めらます。特に、私の場合はストレートは速いといわれていましたが、カーブが下手で「直線番長」と呼ばれていたほどでした(笑)。そこを改善するのに時間が必要だったんです。
深堀:どのように練習をされたのでしょうか?
岡崎:基本的な体のバランスは整っていたので、筋力アップや技術面の向上を目指しました。また、スラップスケートという新しい道具が出て、これへの対応も必要でした。スラップスケートにより、全体的なスピードが上がったので、カーブの遠心力に負けないように体を鍛えながら練習を繰り返したんです。例えば、スピード面では男子選手と一緒に滑り、ついていく練習も行いました。
深堀:僕らも飛距離が出る選手とプレーすると「自分も飛ぶようになる」ことがあります。やはり慣れも大切だと感じますね。それから目標設定も重要だと思いますが、岡崎さんはどのように考えていますか?
岡崎:とても大切ですね。目標を立てて「どのような過程で乗り越えれば達成できるのか」を見極め、それが正しければ自信になりますから。私の場合、アバウトに大きな目標を掲げ「どのレベルにいるのか」分析し、目前の課題をクリアしていく感じです。
深堀:迎えた長野五輪では銅メダルに輝きました。この結果はどう思いましたか?
岡崎:長野五輪の前に、スラップスケートが出て、この靴に困惑した一面があったんです。それ以前は、ワールドカップなどでも優勝していたので「スラップスケートがなければ金メダルが獲れたかも」という気持ちもありましたね。
深堀:スケート靴が変わると全然違うものなのでしょうか?
岡崎:はい、スラップスケートを初めて履いたときは、キックポイントがズレて「スリッパを履いて走っているような感じ」でした。スケートの刃の位置も変えられるので、滑りながら自分で数ミリ単位で調整していくことも必要でしたね。
深堀:ゴルフでも必ずライバルと呼べる存在がいると思います。岡崎さんは、ライバルの存在をどう考えますか?
岡崎:絶対必要ですね。嫌だなとは感じつつも「ありがたい存在」なんです。トップレベルに到達したとき、一人で頂点にいるよりも、横に「抜かれるかも」と感じる選手がいたほうが、レベルアップできると思います。私が現役のころは、試合前はライバルとはひと言も喋りませんでした。競技が終わった後は、いろいろ会話をしましたけど。
深堀:仲が悪いわけではなくて、闘っているときは「ライバル」だったんですね。長野五輪では、橋本聖子さんが、応援している姿も話題になりましたよね?
岡崎:スタート前に、聖子さんと顔を合わせることがあって、そのときに「結果は出ているから大丈夫」といわれたんです。大先輩から「いい成績が出る」と後押しされ、自信が持てました。
深堀:長野五輪では岡崎さんの笑顔もチャーミングと話題になりました。ご自身では意識されていました?
岡崎:いいえ、特には(笑)。ただ、私の場合はリンク上はすごく厳しい表情で、それ以外が笑顔なのでギャップが目立ったんだと思います。
深堀:確かに、ギャップによる印象は大きいですよね。
椎間板ヘルニアの悪化で選手生命の危機。復活の前例がない手術を受け道を切り拓く
深堀:長野五輪が終わった時、岡崎さんは20代後半を迎えていたと思います。年齢的に見れば、銅メダルを置き土産にそこで引退するという選択肢もあったと思うのですが。
岡崎:私の場合は、年齢による変化をあまり感じたことがないんです。ただし、体の細胞は確実に再生しにくくなっていたはずなので「維持する」ことに重点をおいて、疲れを取りながら、少しずつ練習量を上乗せしました。疲れるからと完全に休むのではなく、常に体を動かすようにしていましたね。
深堀:次のソルトレイクシティ五輪までの間に「目標の再設定」を行ったのでしょうか。
岡崎:ええ。自分のポジションを確認しながら、高い目標を掲げるのは若いころと同じですが、練習方法などは年齢とともに変わっていきました。マンネリ化しないよう、辛い中でも少し楽しいことを探したり。一緒に練習する仲間と競争してモチベーションを上げることもありましたね。後輩は嫌だったと思いますけど(笑)
深堀:自分を理解して、モチベーションを上げる方法を把握していたんですね。実際に、岡崎さんは精力的に世界を転戦される中で自己ベスト更新など、活躍されました。しかし、長野五輪の2年後の2000年に怪我をされています。このときの心境は?
岡崎:椎間板ヘルニアが悪化し、痛みを取るには手術しかないと。しかし、それまでスピードスケートの選手で、椎間板ヘルニアの手術をして復活した前例がなく、監督や周囲の人たちは戸惑っていました。引退するなら「手術は必要ない」といわれていましたから。でも、私は「挑戦して道を拓きたい」と思ったんです。自分の中でも「治る」という自信がありました。リハビリをきちんとやれば絶対に復活できると。野生児なので(笑)
深堀:ネガティブになるのではなく、手術を選択し「治ること」を信じたわけですね。トップに戻るという想いも消えなかった。リハビリでは痛みは出なかったのでしょうか。
岡崎:体幹を鍛えていたせいか、全然痛くありませんでした。術後1週間ぐらいは微熱が出ましたが、以降は痛みはなかったですね。そこで自分の体と対話しながら、無理をしないようにリハビリを行いました。さらに、体いいいものを食べるようにして、プロテインなども飲んでいましたね。
深堀:岡崎さんは、ソルトレイクシティ五輪の直前の全日本スプリント選手権で3位に入り、3度目のオリンピック出場を決めました。しかも、怪我からの復活で迎えたオリンピックで、500mで6位入賞。メダルには届かなかったものの、日本記録を更新するという快挙でした。本当にすごいと思います。
岡崎:やればできるんです(笑)。多くの方は、自分で限界を決めてしまうんですね。実践していないのに「無理」と諦めるのはよくないと思います。少しでも「ダメだ」という気持ちになると上手くいきません。
深堀:自分は「やれる」と、ある意味で頭を勘違いさせるのがいいですよね。岡崎さんは、最終的に5大会連続でオリンピックに出場されましたが、30歳を過ぎて高い目標をクリアしながら現役を続けていく原動力はどこにあったのでしょう。
岡崎:私は遅咲きで、20代でスケートの面白さを見出した部分があるんです。その楽しさが変わらなかったのが大きいですね。スピードスケートは岡崎朋美を作ってくれたものなので「感謝しつつ好きでいる」という気持ちもありました。また、結果が悪いときには反省し「自分が納得できるか」も大切。理由は、疑問を持つとスランプに陥りやすいからです。私の場合は監督と自分の考えが一致したときは同じミスを繰り返さずに済みました。
深堀:競技後に反省をして、結果の分析を行い改善する。やはり、岡崎さんは成功も失敗も含め非常に経験値が高いですよね。その経験が糧になる瞬間は、どんなときですか?
岡崎:私は人生すべてにおいて、経験が糧になると思います。現役時代はもちろんですが、引退後も同じです。だからこそ、悔いのないように一瞬を大切に生きることが必要だと感じます。引退した今、外から選手を見ると「素直な選手」が強くなると感じますね。
深堀:アドバイスをしっかり聞いて「自分に必要か考えられる人「と「最初から否定してしまう人」では、その後の成長が大きく違いますよね。
不屈の精神で42歳まで現役選手として活躍。引退後もマスターズゲームで世界記録を樹立!
深堀:岡崎さんは、2006年のトリノ五輪で4度目のオリンピックの舞台に立ち、4位という成績を残されました。この結果については、どのように受け止めていましたか。
岡崎:当時は、残念な気持ちでいっぱいでしたね。スケートの滑りは最高の状態に仕上がっていたので。むしろ調子がよすぎて「何かヘマをやらかしてしまうかも」と心配になるほどでした。ですから「確実にメダルを獲りたい」と考えていましたね。そんな矢先、オリンピックのレース直前に風邪を引いて体調を崩して。今思えば、ピークを万全に仕上げるのが早過ぎたのかも知れません。本当に悔しくて、反省の多い大会だったと思います。
深堀:オリンピックにピークをピッタリ合わせるのは、難しいことだと思います。大会が終わって「こうすれば対策になる」という改善点は見えたのでしょうか?
岡崎:風邪を引いただけなのに、神経質になっていた部分があって「多少ルーズな気持ち」になればよかったのかな、と。また「どうしてもメダルがもう一つ欲しい」と、気合いが入りすぎた部分もありました。でも、私は基本的にポジティブなので、神様が「まだ現役を続けなさい」といっているに違いないと考えたんです。もしメダルを獲っていたら、その時点で引退していたはずです。トリノ五輪の後も現役を続けて、全日本スプリント選手権で9年ぶりに総合優勝できたのもあの悔しさがあったからだと思いますね。
深堀:その全日本スプリント選手権の表彰式のプレゼンターが橋本聖子さんでしたよね。
岡崎:はい、表彰式で「優勝、岡崎朋美、37歳!」というアドリブが入って、みなさん爆笑していました。
深堀:岡崎さんは、ご結婚されてから、5度目となるバンクーバー五輪に38歳で出場されました。当時の心境はいかがでしたか?
岡崎:年齢的にもタイムリミットだと思っていました。実はスピードスケートの場合、女子選手は結婚すると引退するケースが多かったんです。オリンピックを目指したのには、そこを変えたい気持ちもありました。
深堀:バンクーバー五輪が終わって、出産なども経験されてから、42歳(2013年)まで現役を続けられました。現役選手にこだわられた理由は、何だったのでしょうか?
岡崎:バンクーバー五輪の惨敗が悔しくて「このままでは辞められない」と。感覚的も「まだやれる感じ」があったので。そして、子供を産んでから競技を始める際に「どのような過程を踏めばアスリートに戻れるのだろう」という点も楽しみで、純粋に挑戦してみたいと感じました。
深堀:バンクーバー五輪の次のソチ五輪の選考レースは6位で、出場は叶いませんでしたが。
岡崎:そうですね。小平奈緒選手など、次世代の後輩達がすでに頭角を現していましたから。私自身も娘が3歳になり、家族のことも考えなければ、と感じ始めて、現役引退を意識するようになりました。
深堀:岡崎さんは、現役引退後も子育ての傍ら、スケート教室や講演などで、スピードスケートの普及に務めてこられました。さらに、引退から6年後の今年、冬季世界マスターズゲームのインスブルック大会に出場されて、500mと1000mで2冠を達成しています。この大会への参加動機は何だったのでしょうか?
岡崎:私はヘルニアの持病があって、これを悪化させないために引退してからも適度に体を鍛えていたんです。しかし、ジムに行っても目標がなく「何で鍛えているのだろう」と常に思っていました(笑)。そんなときに「目標」として、マスターズに目覚めたんです。自分の年齢のカテゴリーもあったので、チャレンジしました。
深堀:岡崎さんはマスターズゲームのインスブルック大会の後、今度はカナダ大会に出場。500mとスプリント4種目の総合ポイントで、マスターズ世界記録を樹立されましたよね。全盛時と比較して現在のご自身を自己評価するとどんな感じですか?
岡崎:歯痒いですね。イメージはトップスケーターですから(笑)。スタートした瞬間に、自分の理想通りには体が反応しませんし、残念な感じです(笑)。その反面もっとトレーニングすれば「できるのでは」という気持ちもありますね。もちろん、時間が許す範囲にはなりますけど。今は自転車トレーニングなども取り入れています。
深堀:岡崎さんはメンタル面はまだ「現役」ですね(笑)。何歳になっても、時代ごとに自分のベストを作り出す姿勢は素晴らしいと思います。今回は楽しいお話をありがとうございました。
▼岡崎朋美/おかざき・ともみ
1971年9月7日生まれ、北海道出身。冬季五輪に5度出場した元スピードスケート選手。1998年の長野五輪では銅メダルを獲得。W杯通算13勝。2013年に42歳で引退。
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