
「スポーツコンピテンシー」とはビジネスで用いられる「コンピテンシー=成功者に見られる行動特性」をスポーツに当てはめたもの。
そんなトップアスリートが兼ね備えたスポーツで結果を残す秘訣や人生を成功に導くヒントに迫ります。
第2回のゲストは荻原健司さん。
※敬称略
過去の自分を断ち切りV字ジャンプに挑戦…これで苦手を克服し金メダルに輝く!
深堀:スキーノルディック複合のオリンピック金メダリストの荻原健司さんにお話を伺います。近況は、どのような活動をされているのでしょうか。
荻原:今は小学生などの子供たちにスキーの魅力を伝えながら、指導をしています。
深堀:健司さんは、幼少期にスキーと同時に体操もされていたんですよね。今の世代の子供たちにもスキー以外に何か別のスポーツをやらせてあげたいと思いますか。
荻原:そうですね。「いろいろなスポーツや遊びをやろう」という話をしています。自分自身も体操をやっていたからこそ、スキーに転身してから世界の舞台で戦える選手になれた。体操の動きは、物につかまったり回転するなどさまざまで、空間把握能力やしっかりした体の軸が必要になります。幼少期の体を作る重要な時期に体操をすることで、これらが養われたと思いますね。
深堀:その後、健司さんはスキーに打ち込むわけですが、その中でノルディック複合を選ばれた理由は何だったのしょう。
荻原:中学のときにコーチから「ジャンプは北海道が強い、距離スキーは長野。群馬が間に入るには両方をこなすノルディック複合しかない」といわれたんです。当時の私はジャンプが下手でクロスカントリーが強く、クロスカントリーで追い上げる感じでした。
深堀:ノルディック複合を続けながら早稲田大学に進学されて、そこで河野孝典さんとの大きな出会いがありましたよね。河野さんは、ノルウェー留学で強豪選手の家にホームステイしながら最新のトレーニング方法を学び、それを健司さんにも伝授されたとか?
荻原:とにかく圧倒的に練習量が増えました。ノルウェーの選手は、1日中トレーニングをしているんですね。これが持久力を作るベースになるわけです。さらに、考え方や意識も変わりました。ノルウェーの選手は学生でも「アスリートして生きている」ためストイックなんです。常に明確な目標を持ちながら練習している。一方、私たちは基本的にはキャンパスライフを送っていて「その一部にスポーツ活動がある」という意識でした。これではダメだなと。今後は自分も「アスリートとして生きよう」と思いましたね。
深堀:河野さんらと競技生活を続けるなかで、1992年にはアルベールビル五輪に出場されました。そして、日本ノルディック複合団体で見事に金メダルを獲得。この少し前には、苦手なジャンプを克服するため飛び方を変える「賭け」に出たそうですが。
荻原:当時、国内では好成績を上げてトップクラスにいたのですが、W杯などの国際大会では上位に入れなかったんです。それでアルベールビル五輪を迎える直前、大学4年のときに自分の課題について考えるようになりました。結論は明らかで、やはり下手なジャンプを改善するしか道がなかったんです。この時に「何か変えよう」と決めました。そして、当時新しい飛び方として注目され始めていた「V字ジャンプ」を取り入れたんです。最初は戸惑いもあったのですが、練習を重ねることで徐々に感覚が身について、飛距離アップにつながりました。
深堀:ゴルフでもスイングを変えることはすごく大変ですが、短い期間で「V字ジャンプ」の技術はどのように習得されたのでしょうか。
荻原:短期間で習得できた理由のひとつに、子供のころに体操で培った基礎的な能力があったと思います。そして「V字ジャンプ」の先駆者だった選手のビデオなども見ながら、飛び方について研究し練習しました。
深堀:苦手を克服したことで、レース展開に変化は起こりましたか。
荻原:以前は、先にスタートしたライバルをクロスカントリーで追い上げる、という展開で、ゴールするときは30位~40位に終わっていました。しかし「V字ジャンプ」により、自分が最初にクロスカントリーをスタートして「一人で淡々と走る展開」が多くなったんです。「ジャンプでアドバンテージを得てクロスカントリーで逃げ切る」という優勝パターンを確立できました。
深堀:健司さんは「自分の今を知る」という観点から苦手なジャンプを克服し、金メダルを獲得されました。振り返って「今を知る」ために、どんな目線が必要だと思いますか。
荻原:世界の現状はどうなのか、一方で自分が今どの位置なのか、をきちんと評価することが大切です。そのうえで「上達のためのチャレンジ」が求められると思います。過去の自分を断ち切り、新しいことに飛び込む。まさに「決断」が重要です。
深堀:自分を客観視して見極めることは大切ですね。
リレハンメル五輪で個人戦4位と不本意な結果。学んだのは闘志の大切さ!
深堀:健司さんは、1992年に開催されたアルベールビル五輪のノルディック複合の団体戦で、金メダルを獲得。個人と団体で競技に挑む考え方は違うのでしょうか。
荻原:団体戦で勝利するには、チームの雰囲気が重要ですね。そして、全員が同じ目標を共有してトレーニングをする必要があります。
深堀:チーム力が大切なんですね。当時はスタッフも含めてよい関係が築けていたのでしょうか?
荻原:選手が疑問に感じたことをトレーナーに伝えられる環境でしたし、的確な回答も得られましたから。当時の日本チームには「風通しのよさ」がありました。
深堀:個人では92年からワールドカップ3連覇、世界選手権でも93年に個人と団体で優勝という快挙を成し遂げています。94年にはリレハンメル五輪もありましたが、モチベーションやコンディション面はどうでした。
荻原:どれが上というのはなく「全部のタイトルを獲りたい」と思っていました。
深堀:そういう意味では、リレハンメル五輪は満を持して臨んだ大会でしたか?
荻原:実は勝つことに慣れてくる中で「油断」が生じた部分があったと思います。例えば、どんなスポーツにも「朝何時に起きて会場に向かい少しずつ練習行う」みたいな大会を迎えるまでのルーティンがありますよね。当時、私にも「勝てるルーティン」がありました。そして「これを守れば大丈夫」と考えてしまったんです。それが失敗で、団体戦は2連覇できたものの、個人戦は4位に終わりました。「絶対に勝ちたい」という闘争心が失われていたと思います。競技では淡々とルーティンをこなすのではなく、常に「勝つんだ」というファイティングスピリットが絶対に必要です。これを忘れた瞬間に「負けること」を強烈に経験しました。
深堀:リレハンメル五輪後はジャンプで先行してクロスカントリーで逃げ切るスタイルの日本にとって不利なルール変更も行われました。そんな状況で、97年の世界選手権のトロンハイム大会で、見事に勝利。あのときは、どんなレースだったのでしょう。
荻原:私自身は調子がよくなかったんです。しかも、リレハンメル五輪で守りに入って負けた苦い経験もありました。そこで、順位ではなくベストパフォーマンスを出すことだけに集中したんです。
深堀:翌年に開催予定だった長野五輪に向けては、どのような気持ちだったのでしょう。
荻原:難しかったですね。ワールドカップ転戦の中で「今の自分に以前の勢いがない」と感じていましたから。しかも、1年後に今以上のパフォーマンスが発揮できるか不安もありました。それでも、オリンピックの個人戦で金メダルが獲れていなかったので「何とかしたい」と。長野五輪では個人戦の金メダルが大きな目標でした。
深堀:結果的には、個人戦が4位、弟の次晴さんと出場した団体戦が5位で惜しくもメダルには届きませんでした。しかし、兄弟揃って入賞するなど成果を残されたと思います。その後、弟の次晴さんは引退されたわけですが、健司さんが現役続行を決めた理由は何だったのでしょうか。
荻原:実は長野五輪が終わった翌日の新聞で弟の引退を知ったんです。驚いて本人に確認しました(笑)。このときに「自分の引退時期」についても真剣に考えるようになって。長野五輪でメダルを獲れなくて「スキーをやりたくない気持ち」もありましたから。しかし、本当にこのまま引退していいのか、と冷静に考えたときに辞めたい理由が「スキーが嫌になったから」でした。楽しくて始めたスキーなのに嫌いになって投げ出すのはダメだなと。ここで引退したら、いつか後悔する。やはり「スキーをやってよかった」という気持ちで辞めたいと思いました。そして、次のソルトレイクシティ五輪で、すべてを出し切り「自分の競技人生の集大成にして引退しよう」と決めたんです。
深堀:実際に、健司さんは02年のソルトレイクシティ五輪に出場されました。残念ながら、メダル獲得とはなりませんでしたが、同年のシーズンが終了時に引退。当時の心境はどうでしたか。
荻原:「これでいい」という感じで、卒業式を迎えたような気持ちでしたね。少し寂しさもありましたが「アスリートとして実践すべきことは全部やった」という充実感に溢れ、晴々した瞬間でした。
深堀:そういい切れる人は少ないと思います。すべてを「やり切った」という言葉には本当に重みがあります。今回は貴重なお話をありがとうございました。
▼荻原健司/おぎわら・けんじ
1969年12月20日生まれ、群馬県出身。スキーノルディック複合で4度オリンピックに出場、団体戦では2大会連続で金メダルを獲得。現在はジュニアの育成に力を注ぐ。
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