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【テキスト版】CROSSOVER「スポーツコンピテンシー」深堀圭一郎×野村忠宏

常に前に出る、ピンチがきても顔に出さない、絶対に諦めない。これを貫き金メダルに輝く!

深堀:野村さんにアトランタ五輪の最終選考会で「初めてオリンピックを意識された」というお話を伺いました。このときにメンタル面などに変化はありましたか?

野村:代表の可能性があるなら「全力で勝負しよう」という気持ちになりました。当時の僕は、失うものがありませんでしたから。実際に、有力候補として同じ歳の徳野和彦選手がいたんです。彼とは高校のときに対戦経験があったのですが、強過ぎて逃げ回ることしかできず引き分け。これがトラウマになっていて……。そんな徳野選手と最終選考会の準決勝で対戦となり「ここで負けたら自分は同世代の中で一生2番手だ、絶対に勝ちたい」と。そして、最高の背負い投げで一本勝ちを決めたんです。決勝も、その勢いで園田隆二先輩に判定で競り勝ち優勝できました。

深堀:オリンピック出場が決まったときの心境は?

野村:代表が決まったのを聞いた瞬間「イエーイ」と思いました(笑)。ただし、この気持ちは3日間ぐらいだけでしたね。実績のない若造が「日本柔道の60㎏級を背負う」わけで、自分で本当にいいのかと。

深堀:オリンピック出場が、徐々に重圧に変わっていったんですね。

野村:はい、代表合宿の途中で怪我をするなど厳しい時期でしたが、「できることを精一杯やるしかない」と思い練習に取り組みました。周りに他階級で世界チャンピオンになっている先輩方がいましたから、その人たちの練習を間近で見られたのも勉強になりましたね。その結果、自信が持てるようになり、代表としての覚悟や自覚も芽生えました。

深堀:アトランタ五輪の開催直前には、お父さんから言葉をもらったと伺ったのですが。

野村:父からは「不安はあると思う。しかし、スポーツ選手でオリンピックのプレッシャーを感じられるのは一握りだけだから、素晴らしい舞台で戦えることに喜びを感じて精一杯やってこい」といわれました。これで気持ちが楽になったんです。

深堀:アトランタ五輪では、3回戦で当時の世界王者で金メダル候補のニコライ・オジェギン選手(露)と対戦。ラスト11秒での逆転勝利でしたが、下馬評を覆した要因はどこにあったのでしょうか?

野村:自分の想像よりも相手は2割増しで強かったのですが、弱点として「スタミナがない」という点も分かっていたんです。そこで、前半から中盤にかけては何とか凌いで、疲れ始めたときに攻める作戦を立てていました。投げ技のキレには自信があったので、後半勝負に賭けたんです。「自分が実践すべき柔道をして負けたら仕方がない」と考えて、①常に前に出る、②ピンチがきても顔に出さない、③絶対に諦めないという3つのテーマを掲げて戦ったことが勝利につながったと思います。

深堀:野村さんは、その後も勝ち進み決勝戦を迎えられます。決勝では、相手に先にポイントを取られましたが、焦りはなかったのでしょうか?

野村:リードされる展開になっても「最後まで攻め続ける」という意識が強かったので、焦りは出ませんでした。試合中も負ける気は一切しなかったです。「優勝すればヒーローになれる」と考え、常にポジティブな状態で試合に臨んだ結果、金メダルを獲得できたのだと思います。

深堀:お話を伺い「どんなときでも自分で前向きに考えて物事を進めていく大切さ」を改めて感じますね。

野村:実は、素の自分はネガティブでマイナス志向なんです。だからこそ勝負のときに「どういう自分であるべきか」考えて、それを作るために「何をすべきか」など、準備をしっかり行うようにしています。

深堀:野村さんはアトランタ五輪の金メダリストになられたわけですが、周囲の環境なども一変しましたか?

野村:大学生だったので、大きくは変わりませんでした。しかも就職先がなかったんです。スカウトの誘いも全然かからなくて。ですから、天理大学を卒業後は、奈良教育大学の大学院に進学しスポーツ心理などを学びながら、体育協会にお世話になりました。柔道に専念できる環境はあったのですが、実業団に入って競技を続けるのに比べると、金銭面での苦労が大きかったですね。

深堀:アトランタ五輪の翌年には、世界柔道選手権でも金メダルを獲得されましたが、環境が変わるきっかけはあったのでしょうか?

野村:大学院を卒業するタイミングで、ミキハウスさんから声をかけていただきました。柔道部の監督が天理大学の先輩で「今後、野村選手がシドニー五輪で連覇を目指すサポートをしたい」というお話を伺って、入社を決めました。

深堀:オリンピック連覇へ向けて、環境が整っていったわけですね。

勝負師に必要なものを敗戦から学ぶ。そして前人未到のオリンピック3連覇を達成!

深堀:ミキハウスに所属して「柔道に打ち込める環境が整った」と伺いました。このときすでに金メダリストでしたが、技の種類など練習方法に変化はありましたか?

野村:金メダリストとなり、私の得意技である「背負い投げ」は世界中で徹底的に研究されたんです。ですから、同じスタイルでは、4年後のシドニー五輪は勝てないと分かっていました。つまり、技のバリエーションを広げる必要があった。そこで真剣に大外刈りや内股など「1本が取れる別の技」の習得に取り組みました。ところが、ミキハウスに入社した1999年に開催された世界選手権は、選考会で負けてしまい出場できなかったんです。このときは焦りましたね。

深堀:不思議なものですね。アトランタ五輪のときは急に出場が決まり、金メダリストになったら今度は世界選手権の代表から落ちてしまったわけですから。

野村:このときは、本当に申し訳ない気持ちでミキハウスの社長に謝りに行きました。そしたら笑顔で「ええよ、ええよ、世界選手権やろ」と。同時に「野村くんはミキハウスに何をするために入社したの」と聞かれて、「オリンピックで軽量級初の2連覇を達成するためです」と答えたんですね。社長は「その目標があるなら、会社のためではなく自分自身のために頑張りなさい」といってくれて。

深堀:実際に、野村さんはシドニー五輪への出場を実現されましたが、そのときにお父様から手紙をもらったと伺ったのですが?

野村:はい、しかし手紙はすぐには開封しませんでした。「試合の直前に読もう」と考えて、現地に持って行ったんですね。そして、不安で眠れなかったときに初めて目を通しました。書かれていたのは「金メダリストとして4年間努力してきたことは、すべて自信になります。指導者として君は最高の柔道選手だと確信しています」といった内容でした。これにより「自分を信じよう」という気持ちが生まれ、落ち着くことができたんです。試合当日、選手村を出る直前にも手紙を読み返しました。

深堀:野村さんはシドニー五輪で見事オリンピック連覇を成し遂げられましたが、2つ目の金メダルは、どんな意味を持っていたのでしょう。

野村:最初の金メダルは、若さ、勢い、運で取れたものだと思います。しかし一度、金メダリストになり研究された後での優勝はプロセスが全然違います。ですから、一回目よりも感動や喜びが大きかったですね。

深堀:シドニー五輪の後は、すぐに次のアテネ五輪に気持ちが向かったのでしょうか?

野村:体が衰えていく中で3連覇は現実的なのか、という思いもありました。むしろ「最強と呼ばれる状態」で引退した方がカッコいいかもしれないと。ですが実はシドニー五輪の後、1年間休んだのですが、それでも気持ちの整理はつきませんでした。周囲には「現役続行か引退か」決断を迫られました。そこでミキハウスの社長に「日本にいると周囲が騒がしいのでアメリカに行かせて欲しい」と相談したんです。実際にサンフランシスコで暮らしましたが、結果的に、一度競技生活から離れることで柔道の楽しさを再認識できたんです。そして、オリンピック3連覇への意欲も。とはいえ、実質2年間休んだので復帰直後は負け続けました。最初は、自分が勝てない理由が分かりませんでした。しかし、負け試合の映像を見返したとき「笑っている自分」がいた。以前は敗れると号泣するか、怒るかのどちらかでしたから、勝負師としての気持ちに大きな違いがあったわけです。

深堀:野村さんは、そこに気づいて自分を変えることに成功し、アテネ五輪で前人未到のオリンピック3連覇を達成。これを置き土産に、現役引退は考えなかったのでしょうか?

野村:頭にはありましたが、結果はどうあれ4連覇に挑戦すれば「新しい自分に出会える」と思ったんです。それで現役続行を決意しました。

深堀:結果的には、怪我の影響などもあり北京五輪への出場は叶いませんでしたが、40歳まで現役を続けられています。その原動力は、どこにあったのでしょう。

野村:オリンピック代表になれなくても「違うステージで戦いたい」と考えたんです。現状を受け入れつつ、自分の柔道を磨く。そこに生き甲斐を感じていましたね。年齢を重ねるごとに「技術」についても深く考えるようになっていきました。

深堀:年齢を重ねて身に付く技術が「経験」というものに繋がっていくのだと思います。今回は貴重なお話をありがとうございました。

▼野村忠宏/のむら・ただひろ

1974年12月10日生まれ、奈良県出身。1996年のアトランタ五輪からシドニー五輪、アテネ五輪と、柔道史上前人未到の3連覇を達成。2004年には紫綬褒章を受章

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