• HOME
  • 記事
  • ゴルフ
  • 驚異の爆発力! 23歳の新星がプロ最高峰を極めた日【名勝負ものがたり】 | ゴルフのポータルサイトALBA.Net

驚異の爆発力! 23歳の新星がプロ最高峰を極めた日【名勝負ものがたり】 | ゴルフのポータルサイトALBA.Net

副賞でバイクがもらえた時代(提供:日本プロゴルフ協会)

歳月が流れても、語り継がれる戦いがある。役者や舞台、筋書きはもちろんのこと、芝や空の色、風の音に至るまでの鮮やかな記憶。かたずを飲んで見守る人の息づかいや、その後の喝采まで含めた名勝負の舞台裏が、関わった人の証言で、よみがえる。

海の向こうでは全米女子OP 西村優菜のビッグスマイル

1965年7月15日、埼玉県川越市。この町は今も夏には全国でも一、二を争う暑さで知られるが、当時も正午現在の気温は32度、湿度94%という蒸し風呂のような暑さだったと「日本プロゴルフ協会50年史」には、ある。川越カントリークラブで行われている日本プロゴルフ選手権の初日は、まずこの暑さに打ち勝つことが前提となっていた。

そんな中、8バーディ・2ボギー、6アンダー「66」のコースレコードを叩き出したのが、陳清波だった。すでに1959年の日本オープンを制し、翌年も首位でホールアウトしながらスコアの過少申告で失格というショッキングな経験をしていたが、実力のほうは衰えるどころかまだまだ健在。ビッグタイトル奪取に意欲満々だった。

2日目も猛暑が続き、熱中症で倒れる選手まで出る過酷なコンディション。そんな状況下、23歳の新鋭・河野光隆がこの日のベストスコアである「67」をマーク。持ち味である爆発力の片りんをのぞかせた。この時、河野自身にも、密かな自信が芽生えていたという。「実は前年、大阪の枚方で行われた日本プロでも、自分ではあまりいい出来でなかったにもかかわらず、11位に入れたんです。このぶんなら自分はもっと練習すれば勝てるな、と思ったんです。それでとにかく、人には負けないくらい、一生懸命練習して、試合に臨んでいましたから」。

当時の日本プロは第3ラウンドと最終ラウンドの36ホールを1日で行っており、体力勝負の側面もあった。若い河野には、さらにもう一つ明るい材料があった。同じ程ヶ谷カントリークラブの所属である大先輩の小野光一が同組に入ったのだ。河野の父親は程ヶ谷の従業員。のちに副支配人まで出世するのだが、自宅も同クラブの10番ホールの脇にあった。「中学の頃には7番アイアンを1本持ってコースにこっそり入ってプレーしたり、近くの公園で打ったり」という、文字通りの程ヶ谷育ち。保土谷中学を出るとアルバイトキャディとして程ヶ谷に入り、のちにマスターズで活躍し「リトル・コーノ」の異名を取る2学年上の兄・高明とともにプロを目指した。

関連記事