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“バッドボーイズ”ピストンズの象徴。周囲の評価を活力に変えたレインビアとロッドマン【NBAデュオ列伝|後編】<DUNKSHOOT>

チームの大黒柱はトーマス(左)だったが、ピストンズ2度の優勝はレインビア(中央)とロッドマン(右)の存在なくしてあり得なかった。(C)Getty Images
■無名の存在からリーグ最高の守備選手となったロッドマン

ロッドマンが最もプレースタイルの参考にしたのはレインビアだった。「ぜんぜんジャンプ力がないのに、よくあれだけリバウンドが取れるものだ」。ロッドマンはレインビアの動きやポジショニングを研究して自分のものとしていった。身長こそ低いものの、レインビアよりもはるかに優れた身体能力の持ち主だったロッドマンは、すぐにレインビアを上回るほどのリバウンダーになった。

ロッドマンが取り入れたのはリバウンドのスキルだけではなかった。相手を苛立たせ、心理的に追い詰めていく術も学んだのである。レインビアほど強烈ではないが、ロッドマンのラフプレーも相当なものだった。

そのいい例が90−91シーズン、シカゴ・ブルズとのイースタン・カンファレンス決勝第4戦での出来事だった。この試合でロッドマンはスコッティ・ピッペンがドライブしてきたところを思い切り突き飛ばし、アゴを6針も縫う大ケガを負わせたのだ。「あれが大したことじゃないと思うのならまたやってやる」と彼はうそぶいた。

レインビア、ロッドマンにリック・マホーンを加えたピストンズのフロントラインは、暴力的にNBAを支配した。トーマスやジョー・デュマースらの優秀なガード陣が得点を重ね、″悪の三銃士″が鉄壁のディフェンスを展開する。″バッドボーイズ″と呼ばれたピストンズはこうして無敵の存在となり、89年にはロサンゼルス・レイカーズ、90年にはポートランド・トレイルブレイザーズをファイナルで下して2連覇を達成した。
だが、そこからの転落も早かった。すぐにマイケル・ジョーダンとブルズの時代がやってきて、バッドボーイズは王座を追われる。

91−92シーズンを最後にデイリーHCが退任したことが、デイリーを父のように慕っていたロッドマンの変化の引き金になった。チーム内で仲のよかったマホーンやジョン・サリーに続いてデイリーまでもが去っていったことに、彼は深く傷ついていた。

「何をすればいいのかわからない。最優秀ディフェンス賞も受賞したし、リバウンド王にもなった。やれと言われたことはすべてやってきた。それなのに……年俸はいまだにたった200万ドルだ」。どれだけチームの勝利に貢献しても、それにふさわしい扱いを受けていないとの不満があった。

元々精神的に不安定だったロッドマンは、練習に遅刻や欠席を繰り返すなど次第に行動がおかしくなっていった。93年4月には失踪した挙句、ライフルを抱えてピックアップトラックの中でうずくまっているのを発見され、自殺しようとしていたのではと噂された。ロッドマンの引き起こすトラブルに対処しきれなくなったピストンズは、92−93シーズン終了後、彼をサンアントニオ・スパーズへ放出した。

このトレードが、新生ロッドマン誕生のきっかけになった。髪の毛をあらゆる色に染め、全身に奇抜なタトゥーを施すようになったのだ。プレーだけでは注目されないのなら、それ以外の部分で注目を集めてやろう。そう決心した末の行動だった。
その成果は明らかで、優勝争いの常連だったピストンズ時代と比べても段違いの注目を浴びるようになった。気をよくしたロッドマンは、さらに人々の気を惹くようにますます過激な行動をとるようになり、それがエスカレートすればするほど人気はうなぎのぼりになった。95−96シーズンにブルズへ移籍し、ジョーダン、ピッペンとともにリーグ3連覇に大いに貢献した頃には、彼は世界的なスーパースターにのし上がっていた。

もちろんコート上では、相変わらずリバウンドとディフェンスで対戦相手を制圧し、7年連続でリバウンド王になっていたことを忘れてはならない。富と名声の両方を思うがままに手にすることができたロッドマンは、人生の頂点を迎えたのだった。

■役割に徹しコートで表現した真のプロフェッショナル

ところが、NBAのキャリアを終えるのと同じくして、人々はロッドマンの奇異な行動に飽きてしまった。その後もマイナーリーグやフィンランド、イギリスなどのリーグで発散的にプレーを続けたが、行く先々で巻き起こすトラブルもそれほど話題にはならなかった。一時的に名を上げて、やがては使い捨てにされていったショウビズ界のにわかスターたちと同じ道を、ロッドマンも歩んでしまったのだ。

ロッドマン人気が沸騰していた陰で、レインビアは93−94シーズンに11試合に出場したのを最後に、「いくら金を積まれても、勝てないチームでやるつもりはない」と言い残してひっそりコートから去った。これほどその引退が惜しまれることのなかったスター選手も珍しいだろう。
引退後、レインビアは現役当時の極悪人のイメージを少しずつ拭い去っていった。テレビ中継の解説者として活動し、新たなピストンズのスター、グラント・ヒルとはフィラのCMで共演。真面目で紳士的なヒルにラフプレーを伝授するコーチ役を演じ、大いに評判となった。

ピストンズのヘッドコーチが変わるたびに彼の名が後任候補として上がっていたが、02年に姉妹チームであるWNBAのデトロイト・ショックのヘッドコーチとなり、3度のリーグ制覇へと導いた。

「私がそれほど悪い人間でないことは、わかってもらえたのではないかな」と語ったレインビアには、かつて誰からも恐れられた悪漢のイメージは微塵も感じられなかった。現在も彼はWNBAのラスベガス・エイシーズでヘッドコーチを務めている。
レインビアとロッドマンを″デュオ″として括ることに、違和感を覚える人もいるかもしれない。どちらも基本的にはリバウンドとディフェンスが中心の選手であり、例えばジョン・ストックトン&カール・マローンのように、お互いのプレースタイルが有機的に結びついていたわけではない。

また彼らは、どんな意味でも友人同士とは言えなかった。レインビアはチームメイトですら煙たい存在だったし、内向的な性格のロッドマンはそれほど多くの友人を作るタイプではなかった。ロッドマンの回想によれば、「同じロッカールームにいても、レインビアと視線が合ったことは一度もなかった」というほどの冷めた関係だった。
だが、プロフェッショナルの世界では仲良し集団である必要はどこにもない。ロッカールームでどれだけいがみ合おうと、コートの上で協力さえできればそれでいい。レインビアとロッドマンの関係がまさにそうだった。尋常でないほどの上昇志向と勝利への執念、そして周囲への評価への反発を活力にして、彼らはピストンズを頂点へ押し上げた。

異端のチームとして一時代を築いた″バッドボーイズ″。その象徴だったロッドマンとレインビアの名は、これからもある種の畏怖をもって語り継がれることだろう。

文●出野哲也
※『ダンクシュート』2007年2月号原稿に加筆・修正

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