憧れのジョーダンとの対決をノビツキーが回顧!「ものすごく興奮していた」<DUNKSHOOT>
今年1月、背番号41がダラス・マーベリックスの永久欠番となったダーク・ノビツキーは、21年間をひとつのフランチャイズでプレーし続けたレジェンドである。
213cm・111kgという体格ながら、ガード選手のようにアウトサイドからも難なく決めるシュート力を持ち、キャリアを重ねていくうえで習得した“ワンレッグ(片足)・フェイダウェイジャンパー”を武器にショットの雨を降らせた。
2006−07シーズンにシーズンMVP、10−11シーズンにはマブズを球団史上初のNBAチャンピオンへ導き、ファイナルMVPを獲得。オールスター出場14回、オールNBAチーム選出12回に加え、昨年10月にはリーグの75周年記念チームにも選ばれている。通算3万1560得点はNBA歴代6位、外国籍選手としては歴代最多であり、来年にはバスケットボール殿堂入りが確実視されている。
そんなノビツキーにとって、少年時代のアイドルはシカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンだった。現地時間3月10日(日本時間11日、日付は以下同)にYouTubeへ公開された『Fox Sports Radio』の「DAN PATRICK SHOW」へ出演したノビツキーは、ジョーダンが1999年に2度目の引退をした当時を振り返り、想いを語った。
「ユタで行なわれた(NBAファイナル)第6戦を最後に、MJは引退したんだ。私はその年の夏にドラフトされて、そこから(リーグは)ロックアウトに入った。私は当時、自分のヒーローでアイドルでもある彼と対決することを考えていたものさ」
98年のNBAファイナル第6戦。ジョーダンはブルズを6度目の優勝へと導く決勝ジャンパー、いわゆる“The Shot”を突き刺し、ユタ・ジャズを4勝2敗で下して6度目のファイナルMVPを獲得。
一方、同年のドラフト1巡目9位でミルウォーキー・バックスから指名されたノビツキーは、ドラフト当日にトレードでマブズへ移籍するも、リーグは労使交渉のもつれからロックアウトへ突入。98−99シーズンの開幕は通常の10/11月から2月まで遅れ、50試合の短縮シーズンとなった。
「そこで彼(ジョーダン)は引退した。ロックアウトとなった99年に、彼が戻ってくることはなかった。だから彼と対戦するチャンスが私にはなかったんだ」
ジョーダンは93年秋に続いて2度目の現役引退を表明し、ブルズは弱小チームへ後退。ノビツキーはルーキーシーズンこそ平均8.2点、3.4リバウンドにとどまったものの、翌99−00シーズンには平均17.5点、6.5リバウンドへ数字を伸ばし、マブズの主力へと成長を遂げた。
するとノビツキーにとって念願の瞬間が訪れる。01年秋にジョーダンが2度目の現役復帰を表明し、ワシントン・ウィザーズの一員として2シーズンをプレーしたのである。
02年3月31日の初対決ではノビツキーが23得点、12リバウンド、ジョーダンが10得点、5アシストを残し、試合はマブズが110−103で勝利。
02年12月23日にはノビツキーが30得点、17リバウンド、対するジョーダンは13得点、7リバウンド、8アシスト、2ブロックをマーク。最後の直接対決となった03年2月23日はノビツキーが29得点、10リバウンド、ジョーダンは30得点、9リバウンドの大活躍を見せたが、試合はいずれもマブズが勝利を収めた。
「数年後にウィザーズで復帰した彼は、もちろん歳を重ねていた。でも依然として素晴らしかったよ。ポストで彼が私を何度かガードしてきて、ポストアップしようとしたんだ。もう最高だった。あの時、荒っぽいフェイダウェイジャンパーを打っていたのを今でも覚えているよ」
38歳で復帰したジョーダンは、ブルズ時代に見せていた空中技や豪快なダンクといったド派手なプレーは鳴りを潜めていたものの、磨きがかかったスキルと誰よりも豊富な経験を武器に2シーズンとも平均20点をクリア。
全盛期ではなかったとは言え、同じジャンパーの使い手であるノビツキーにとっては「アイドルのMJと同じコートで対戦できたことにものすごく興奮していた」と、一生記憶に残り続ける思い出となっているようだ。
文●秋山裕之(フリーライター)
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