「ケビンは尊敬に値する」「ラリーは最も近い存在」長い年月を経て“友人”となった最強コンビ【NBAデュオ列伝|後編】
■主役バードの脇役を自覚したマクヘイル
1984年、セルティックスは3年ぶりにNBAファイナルに進出した。相手はマジック、ジャバーを擁するロサンゼルス・レイカーズ。幾度となく名勝負を繰り広げてきた古豪同士であり、しかも79年のNCAAトーナメント決勝以来のバードとマジックの頂上決戦とあって、開幕前から大いに盛り上がっていた。
ところが、1勝1敗で迎えた第3戦、セルティックスはレイカーズに33点差の屈辱的な大敗を喫してしまった。
「このチームは意気地なしの集まりだ。ハートのある奴は誰もいない。チーム全員、心臓手術が必要だ」
試合後、バードは憤然として吐き捨てた。
誰を名指ししたわけでもなかったが、マクヘイルはこの言葉が自分に向けられていたことはわかっていた。彼の心の中に、この屈辱をエネルギーに変えてやるという闘志が湧き起こった。第4戦の試合前、マクヘイルはエインジに向かって呟いた。
「俺たちはタフにならなければ。もう奴らの思い通りにはさせない」
その言葉通り、マクヘイルはドライブしてきたカート・ランビスにタックルして突き飛ばすラフプレーを演じた。マジックが「あのプレーで、俺たちは少し怖気づいてしまった」と認めたように、このプレーで雰囲気ががらりと変わった。勝利を収めたセルティックスは、これをきっかけに連勝し、チャンピオンの座に返り咲いた。
「キャリアの中でも最高の試合だった」
バードは満足げにこの試合を振り返った。勝ったから、自分が決勝シュートを決めたからだけではない。チームメイト、中でもマクヘイルが本気を出して全力で戦ったことが、彼にとっては嬉しかった。
それでも、これでマクヘイルの性質が根本的に変わったわけではなかった。84-85シーズンにはシックスマンから先発へと昇格し、成績自体は素晴らしかったが、周囲からは時折流してプレーしているように映った。バードからの厳しい評価も相変わらずだった。マクヘイルが球団新記録の56得点をあげた試合後、彼はマクヘイルに向かって言い放った。
「最後まで手を抜かなければ、60得点は取れたはずだ」
9日後、バードは60得点をあげて、マクヘイルの記録をあっさり塗り替えた。全力を尽くせば、どのような結果が出るか。そこには無言のメッセージが込められていた。
バードは絶頂期を迎えていた。84年からは3年連続でMVPを受賞。セルティックスも86年は、ホームで40勝1敗の圧倒的な成績を残し、ファイナルではヒューストン・ロケッツを下してバード入団後3度目の優勝を飾った。マクヘイルも87年は平均26.1点を記録するなど、ますます手がつけられなくなっていた。
「バードとマクヘイル、どちらが上か」
そうした議論すら真面目に語られるようになり、2人はMVPの有力候補と目された。ところが、肝心のマクヘイル本人がMVPに意欲を燃やさないことにバードは落胆した。
「まるで無関心な様子だった。奴はいつの日か、MVPを獲っておけばよかったと後悔するだろう。チャンスは手が届くときに掴まなければならないのに」
一方のマクヘイルの言い分はこうだった。
「ラリーがいる限り、自分はMVPにはなれないだろうし、それで構わない。年をとったらどう思うかなんて知ったことじゃない」
セカンド・フィドルという言葉がある。カントリー音楽での第2ヴァイオリン(フィドル)奏者のことで、脇役、引き立て役という意味で一般にも使われる。マクヘイルはまさにバードのセカンド・フィドルであり、そのことを自覚していた。彼が全力を尽くさないように見えたのは、どれだけ努力しても、自分がバードを超えることがないことを、無意識のうちに感じたせいかもしれなかった。
90年代に入ると、さしものセルティックスにも陰りが見え始めた。バードは腰に、マクヘイルは足に慢性的な故障を抱え、欠場が目立つようになった。デトロイト・ピストンズ、そしてシカゴ・ブルズがNBAの覇権を握り、世代交代の時期が訪れた。
92年、バルセロナ・オリンピックのドリームチーム参加を最後にバードは引退した。最後までマクヘイルと心から打ち解けることのなかったバードだが、年とともに彼に対する厳しい評価は和らいでいった。
「ケビンがいなければ我々が優勝することはなかっただろう。イライラさせられることもあるが、彼のことは弟のように思える。選手としても、人間としても尊敬に値する男だ」
マクヘイルも93年限りで現役を退いた。いかにも“セカンド・フィドル"にふさわしいひっそりとした引き際だった。だが、これは2人のNBA人生の第一幕の終わりに過ぎなかった。
マクヘイルは93年、故郷ミネソタのティンバーウルブズに迎えられ、95年に実質的なGMである球団副社長に昇格した。同年のドラフトでは、高校生のケビン・ガーネットを 1巡目5位で指名し、周囲を驚かせた。当時は高卒選手がNBAで通用するとは誰も考えていなかったが、マクヘイルの先見性はそうした常識を覆した。
弱小ウルブズは次第に力をつけ、2003-04シーズンにはカンファレンス決勝に進出するまでに成長した。しかし04-05シーズン、ウルブズは前評判を大きく裏切る低迷状態に陥り、マクヘイルが自ら指揮を執ることになる。しかし同年も、再び代役HCを務めた08-09シーズンも、プレーオフには進めなかった。彼に代わって09年、新HCに就任したのは因縁のランビスだった。
その後11年から16年にかけてはヒューストン・ロケッツでも采配を振り、14-15シーズンはカンファレンス決勝まで進んだが、翌年に開幕から負けが込むとあっさり解任となった。
一方バードは、引退後セルティックスのコンサルタントを務めていたが、97年にペイサーズのヘッドコーチとして故郷インディアナに戻ってきた。98年は最優秀コーチ賞に選ばれ、2000年には球団史上初のNBAファイナル進出を果たしている。心臓疾患を理由に同年限りで一旦身を引いたが、03年に球団社長として復帰した。12年に最優秀エグゼクティブ賞を受賞し、これで選手・ヘッドコーチ・エグゼクティブのすべてで最優秀賞を手にした、リーグ史上唯一の人物となった。
ウルブズ時代、マクヘイルはかつてのチームメイトとの関係をこのように語っていた。
「ラリーやダニー(・エインジ)は、同じGMとしてライバル関係にあるわけだが、それでもいい友人だ。この2人は、私にとって最も近い存在なんだ。ビジネスとしてではあっても、彼らと会話しているととても楽しいし、安らぎを与えてくれる」
長い年月を経て、バードとマクヘイルの関係は友人という言葉を使うまでに成熟したものになった。ボストンのホームコートで、天井から32番のマクヘイルと33番のバードの背番号が、永久欠番として同じバナーに並んでいる光景は、そのことを象徴しているようにも見える。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2005年5月号掲載原稿に加筆・修正。
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