代表格はレジェンドのアリジンと現役のラウリー!ビラノバ大の歴代ベストメンバーを選定<DUNKSHOOT>

今年発表されたNBA75周年記念チームにも選出されたアリジン(左)、現役のラウリー(右)がビラノバ大OBの代表格だ。(C)Getty Images
1910年に創設され、NBA(1946年)より古い歴史を持つNCAA(全米大学体育協会)は、プロを目指す若手選手たちにとってNBA入りの“王道ルート”であり、時代を問わず何人ものスーパースターをNBAに送り出してきた。

では、カレッジとNBAで実績を残した選手を対象に、大学別に最強メンバーを選出した場合、どんな顔ぶれになるのか。『THE DIGEST』では、双方に精通する識者に依頼し、各大学のベストメンバーを選んでもらった。

今回は3度の全米制覇(1985、2016、18)を誇るビラノバ大編をお届け。古くは1950年代のレジェンドから、現役でも8人のNBA選手を擁する名門においては、どのような布陣が出来上がるのだろうか。
【ポイントガード】
カイル・ラウリー

1986年3月25日生。183cm・88kg
カレッジ成績:57試合、平均9.5点、3.8リバウンド、3.0アシスト
NBA成績:974試合、平均14.8点、4.4リバウンド、6.3アシスト

近年のビラノバ大出身者では、NBAで最も成功を収めている選手。大学での成績は目立ったものではなかったが、NBAでの出場試合数をはじめアシストやスティールは同校出身選手中最多、得点もポール・アリジンに次ぎ2位にランクされている。

2006年のドラフト24位でメンフィス・グリズリーズに指名されたものの、翌年マイク・コンリー(現ユタ・ジャズ)の入団などで居場所を確保できず、08−09シーズン途中にヒューストン・ロケッツへトレード。すると年々得点力とプレーメイキング能力、ディフェンス力に磨きをかけていく。大学ではほとんど打たなかった3ポイントも、重要な武器のひとつになった。

本格的に開花したのはトロント・ラプターズ時代で、15年から6年連続オールスター選出、16、17年には平均20点以上を記録。15−16シーズンは3rdチームながらオールNBA入りも果たした。さらに19年には自身&球団初優勝も経験。9年間を過ごしたラプターズではアシスト、スティールなどの球団記録保持者となっており、マサイ・ウジリGMに「フランチャイズ史上最高の選手」と称賛された。
【シューティングガード】
ケリー・キトルズ

1974年6月12日生。196cm・81kg
カレッジ成績:122試合、平均18.4点、5.9リバウンド、3.3アシスト
NBA成績:507試合、平均14.1点、3.9リバウンド、2.6アシスト

ビラノバ大には4年間通い、通算2243得点で歴代最多記録を保持。96年にはポール・アリジン以来、46年ぶりとなるオールアメリカン1stチームに選出された。

同年のドラフト8位でニュージャージー(現ブルックリン)・ネッツに入団。この年は史上屈指の豊作年で、コビー・ブライアント(ドラフト13位)やスティーブ・ナッシュ(同15位)らのちのMVPより上位での指名だった。細身のスタイリッシュな選手で、ルーキーイヤーは平均16.4点、翌年も17.2点を記録。守備でもタイミング良くスティールを奪い、期待通り成長しているように思えたが、3年目からヒザの痛みに悩まされはじめ、4度も手術を重ねた挙げ句2000−01シーズンは全休してしまう。

復帰後はジェイソン・キッド(現ダラス・マーベリックスHC)が加入したチームの堅実な3番手として、02、03年に2年続けてのファイナル進出に貢献した。ロサンゼルス・クリッパーズで過ごした04−05シーズンを最後に30歳でプロ生活に見切りをつけ、その直後にビラノバ大に復学してMBAを取得。16~18年にはプリンストン大のアシスタントコーチを務めた。
【スモールフォワード】
ポール・アリジン

1928年4月9日生(2006年12月12日没)。193cm・86kg
カレッジ成績:80試合、平均20.0点
NBA成績:713試合、平均22.8点、8.6リバウンド、2.3アシスト

現役のミカル・ブリッジス(フェニックス・サンズ)も好選手だが、ビラノバ大出身者で唯一の殿堂入り選手には及ばない。高校時代はチーム入りできない程度の存在だったものの、偶然のきっかけで、当時は誰も試みていなかったジャンプショットを体得。大学時代には1試合85点を叩き出す怪物レベルへ飛躍した。

フィラデルフィア出身であり、50年のドラフトではテリトリアル・ピック(地域優先指名)で地元ウォリアーズ(現在の本拠はゴールデンステイト)に入団、新人王に輝く。2年目は総得点1674で得点王、平均25.4点も1位。その後2年間は朝鮮戦争中とあって海兵隊に入隊していたが、除隊後の56年ファイナルでは平均27.6点でチームを優勝に導いた。チーム2番目の高得点だったトム・ゴーラ(13.8点)のちょうど2倍で、いかに圧倒的な存在だったかがわかる。

56−57シーズンは1817点/平均25.6点で2度目の得点王に。キャリア10年間で毎年オールスターに選ばれ、1年目を除いて平均得点はすべて20点以上という、NBA初期を代表するスターの1人だった。
【パワーフォワード】
ジム・ワシントン

1943年7月1日生。198cm・95kg
カレッジ成績:85試合、平均13.5点、14.0リバウンド
NBA成績:774試合、平均10.6点、8.6リバウンド、1.4アシスト

ビラノバ大での通算1194リバウンドは同大史上2位で、4年時には平均15.2点、15.8リバウンドを記録した。65年のドラフト8位でセントルイス(現アトランタ)・ホークスに入団するが、翌年のエクスパンション・ドラフトで、新球団のシカゴ・ブルズに指名され移籍。

身長198cmでありながらセンターとして起用され、しかも当時のジョニー・カーHCは「リーグ一背の低いセンター」として売り出すため身長を低くサバ読みさせた。体格面での不利は「ダンクの練習をしているうちに身についた」ジャンプ力でカバーし、68、69年は2年続けて平均ダブルダブル。27リバウンドを奪った試合もあった。

71−72シーズン途中にホークスへ戻ると、73、74年はまた2年連続で平均ダブルダブル。NBAでの通算6637リバウンドはビラノバ大OBで最多となっている。アトランタのファンの間で人気が高かったこともあり、引退後は同地に拠点を構え、市職員やホークスのコミュニティ部門などで働いた。
【センター】
ティム・トーマス

1977年2月26日生。208cm・104kg
カレッジ成績:32試合、平均16.9点、6.0リバウンド、2.1アシスト
NBA成績:824試合、平均11.5点、4.1リバウンド、1.5アシスト

本来のポジションはフォワードながら、ビラノバ大出身者にはNBAで活躍したセンターがいないため、5番でしばしば起用されたトーマスを選んだ。

高校時代から有望視され、ビラノバ大に入学した96−97シーズンに最優秀フレッシュマン賞を受賞。1年でアーリーエントリーし、ドラフト7位で地元ニュージャージーのネッツが指名。前年のキトルズに続くネッツからの指名だったが、2日後にフィラデルフィア・セブンティシクサーズへトレードされ糠喜びに終わった。

1年目から平均11.0点をあげオールルーキー2ndチームに選ばれる順調なスタートを切るも、2年目途中でミルウォーキー・バックスへ移籍。身長の割にアウトサイドシュートが上手く、07−08シーズンまで9年連続で平均2桁得点をあげた。ただし最高でも03−04シーズンの14.7点。決して悪い選手ではなく13年間と息の長いNBA生活を送ったが、「無限大」とまで言われたポテンシャルは完全には発揮できず、2000年に結んだ6年6700万ドルの契約に見合っていたかは微妙なところだ。
【シックスマン】
エド・ピンクニー

1963年3月27日生。206cm・88kg
カレッジ成績:129試合、平均14.5点、8.6リバウンド、1.8アシスト
NBA成績:793試合、平均6.8点、5.0リバウンド、0.9アシスト

NBAでは脇役の域を出なかったとはいえ、ビラノバ大最大のヒーローはメンバーに加えたい。1985年のNCAAトーナメントでビラノバ大は第8シードに過ぎなかったが、次々に接戦を勝ち抜いていく。ついにはパトリック・ユーイングを擁する前年王者ジョージタウン大と決勝で激突。完璧なゲーム運びで2点差の勝利を収める大会史上屈指の番狂わせを演じた。
この大会でMVPに選ばれたのが、ユーイングとのマッチアップで五分に渡り合ったピンクニー。“イージー・エド”と呼ばれた柔和で気楽な性格もあって、同大史上最高の人気選手と言われている。

ピンクニーは同年のドラフト10位でサンズに指名され、2年目には平均得点を2桁に乗せてリバウンドも自己最多の7.3本。だがその後移籍したサクラメント・キングスやボストン・セルティックスでは伸び悩み、ジャーニーマンとしてキャリアを終えた。それでも通算オフェンシブ・リバウンド1487本は、ビラノバ大OBでは断然トップであり、435ブロックも同じく1位である。

文●出野哲也

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