• HOME
  • 記事
  • バスケットボール
  • 【NBA背番号外伝】初の欠番は巨人ムトンボ!魔術師J-Willを筆頭に、着用者の約1割がウィリアムズ性の55番<DUNKSHOOT>

【NBA背番号外伝】初の欠番は巨人ムトンボ!魔術師J-Willを筆頭に、着用者の約1割がウィリアムズ性の55番<DUNKSHOOT>

通算ブロックで歴代2位のムトンボ(右)は55番で初の欠番選手。2人のジェイソン・ウィリアムズ(左)はエース格ではなかったが、チームの主力として活躍した。(C)Getty Images
カレッジバスケットボールでは背番号に関するルールが様々あり、現在では審判がコールする際の都合を考え、6から9までの数字は着用できないと定められている。そのため、大学では55番が最も大きな背番号となっている。プロではそうした制限こそないものの、これより大きな番号をつけている選手は数えるほどしかいない。

NBAで背番号55を着用した選手は過去109人いるが、そのうち約1割の8人がウィリアムズ姓。1997年などはジェイソン、エリック、スコット、アーロンと4人も55番のウィリアムズがいた。ただし2015年にサンアントニオ・スパーズに在籍したレジーを最後に、55番をつける選手はいなくなっている。

8人のウィリアムズのなかで最も際立った活躍を見せたのは、スペルこそ異なるが名前はともにジェイソンの2人。綴りがJaysonのほうのウィリアムズは90年代に活躍した黒人ビッグマンで、フィラデルフィア・セブンティシクサーズで2年間、ニュージャージー(現ブルックリン)・ネッツで7年間ずっと55番を着用。

屈強な体格でリバウンドを奪いまくり、98年の13.6本はデニス・ロッドマンに次いでリーグ2位だった。だがチームメイトとの接触で足を負傷し、31歳の若さで引退。その後2002年に運転手を過って射殺し、刑務所生活も経験しているが、被害者の年齢は偶然にも55歳だった。
もう1人のジェイソン(Jason)・ウィリアムズは、Jaysonとは正反対の小柄な白人PGで、ストリートの黒人選手のようなプレースタイルから、ついたニックネームが“ホワイト・チョコレート”。98年にサクラメント・キングスに入団すると、魔術師のようなボールハンドリングと強気なプレーで人気が沸騰。55番のジャージーが飛ぶように売れ、オール・ルーキー1stチームに選出されている。

55番を選んだのは、マーシャル大に入学した際、ほかのガード2人が50番台の背番号だったのに合わせたのが理由だという。“J-Will”の愛称でも親しまれた男は、メンフィス・グリズリーズに移籍後は背番号2に変更したが、トレードでマイアミ・ヒートに移った05−06シーズンには再び55番に戻し、自身初のチャンピオンリングを手にしている。

55番で最初のスター選手はキキ・ヴァンダウェイ。得点能力の高いフォワードで、80年代にデンバー・ナゲッツで活躍し、83年には平均26.7点でリーグ2位、翌84年は自己最多の29.4点で3位と得点を量産。2年連続でオールスターに選出された。

ポートランド・トレイルブレイザーズに移った85年以降も安定して20点以上を稼ぎ、晩年のニューヨーク・ニックス、ロサンゼルス・クリッパーズ時代も55番をつけ続けたが、いずれの球団にも5年以上在籍しなかったため、欠番とはなっていない。
ヴァンダウェイが去ったナゲッツには、91年にコンゴ民主共和国出身の巨人、ディケンベ・ムトンボが入団。ジョージタウン大時代に「最初は15番を希望していたけど、コーチの方針でビッグマンは若い番号を貰えず、55番にしろと言われたんだ」という理由で55番をつけると、42歳で引退するまで、ヴァンダウェイ同様所属した6球団すべてでひとつの番号を通した。

94年から3年連続ブロック王、アトランタ・ホークス移籍後の00、01年は2年連続リバウンド王になるなど、計4度の最優秀守備選手賞に輝いた。人道的活動でも名高く、殿堂入りを果たしているほか、55番では初の永久欠番(ホークス)ともなった。

殿堂入り選手では、NBA初期のスターだったドルフ・シェイズもルーキーイヤーのみ55番をつけたことがあるが、キャリアの大半は背番号4。息子のダニーは、高校時代に55番で欠番にまでなっているにもかかわらず、18年のプロ生活で一度も同番号をつけなかった。

ムトンボの母校ジョージタウン大には欠番制度がなく、その後もジャハイディ・ホワイト、ロイ・ヒバートらビッグマンが55番を受け継いだ。現在、同大学で55番を着けているのはビクトル・ミュアサン。NBA史上最長身選手(231センチ)ジョージ・ミュアサンの息子である。
55番の実力派ビッグマンとしては、アントワン・カーも挙げられる。最盛期にはキングスで平均20点以上をマークしたが、当時の背番号は35で、94年にユタ・ジャズへ移籍し55番に変更。カール・マローンの控えとして、97、98年の2年連続カンファレンス制覇を支えた。90~00年代にかけては、ロレンゼン・ライトやアンドリュー・デクラーク、前出のホワイト、ヒバートら、あまり目立ちはしないが55番の先発級センターが何人もいた。

そのほか、80年代には名スコアラーであるバーナード・キングの弟アルバートがネッツで活躍。現役ではダンカン・ロビンソン(ヒート)ら4人が55番を使っている。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2015年9月号掲載原稿に加筆・修正

関連記事