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故障に泣かされ続けたDeNA齋藤俊介。底抜けの明るさの影にあった壮絶なプロ生活、そして第2の人生への想い

即戦力として期待されながら、故障続きで大成できなかった齋藤。短くも“太い”プロ生活、そして今後への想いを語ってくれた。写真:萩原孝弘
「僕の野球人生は本当に幸せでした」。

今シーズン限りでユニホームを脱ぐ覚悟を決めた齋藤俊介は、吹っ切れたような笑顔を見せた。

2017年ドラフト4位、大学・社会人を経て即戦力を期待されて入団した右腕は、ルーキーイヤーのキャンプ時にいきなり右ヒジ痛を発症。「(ヒジを)強化していたら、肩が固まって手術するまでになってしまった」と投げられない日々が続いたが、2019年7月5日に遅ればせながら一軍初登板を果たし、9月には先発としても好投した。

怪我を乗り越えての内容の濃い16試合には、首脳陣にもファンにも新星誕生を予感させた。オフも体力強化に精神の整え方、新球マスターなど精力的に動き続けると、20年の春季キャンプではラミレス監督(当時)から直々に“キャンプMVP”に選ばれたことを告げられ、オープン戦でもクローザーのポジションで3セーブ、無失点の快投を披露した。

「オープン戦まではいい場面で投げさせてもらえたりと多少なりとも手応えは感じていましたし、チームにも期待してもらえているかなとも思っていましたね」と、プロ3年目での「完全開花宣言」の時が刻一刻と近づいていた。
しかし、新型コロナウイルスが世界を襲った。プロ野球の開幕時期も不透明な状況が続くなかで、齋藤は「それでも気持ちは切らさず、いつ開幕してもいいように、限られた時間と場所で可能な限り練習していました」と弛まぬ努力を続けていたが、神様は齋藤にまたもや試練を与えた。開幕直前の6月に頸椎のヘルニアを患ったのだ。本人は当時を「頸椎のヘルニアになってしまいました。やっとヘルニアが完治したあとの7月には、足首をハードな捻挫をしてしまって…」と惜しんだ。

大学から社会人を経てプロ入りして3年目、すでに26歳。決して若くない年齢は焦りの感情を助長させる。「足首がなかなか治らずテーピングで固めて投げていましたが、下半身を使えないフォームでは上半身(特にヒジ)へのダメージが大きく、ケアしてかばいながら投げていたらヒジが痛くなってしまって」と、怪我が怪我を呼ぶ“負の連鎖”に陥ってしまった。

身体のケア、毎日のリハビリ。やれることは全力でやった。しかし、怪我は思うように良くならず、21年になっても復帰の目処が立てられない状況に「今年何としても復帰して投げないと来年はないと、不安な気持ちが大きくなっていきました」。

意を決して「トレーナーさんや球団の方とお話しさせてもらう機会を設けて頂きました。いろんな方に手伝ってもらいリハビリしているが、なかなかうまく行かないこと。自分には時間がないこと」をぶつけた。

不安な思いの丈を訴えたうえで、「やれることがあるなら全部やりたい。そうでないと後悔してしまう。少しでも可能性があるなら手術して復帰を目指したい」と希望を伝えた。球団もその熱意を汲み取り、8月2日に右ヒジのクリーニング手術を敢行した。

手術は無事に成功。ただ、この手術のセオリーは「3ヵ月程度でバッターに向かって投げられる」だけである。「本来の自分のボールであったり、何一つ違和感なく投げられるというのとは程遠いものでした。トレーナーさんに話して、急ピッチで投げられるスケジューリングにしてもらったんですが、そう簡単にはいかなくて」と、一進一退の日々が続いた。

「今日痛かったらもう厳しいのかもしれない」。そう覚悟して挑んだ9月末の平地での立ち投げ。「体感的にもいいボールは投げられましたね。しかし痛みは全然なくなっていなくて。投げ終わった後も痛みでシャンプーもできないくらいでした」。

「仮に一回のピッチングで運良く抑えられたとしても、プロのシーズンは何ヵ月もあります。その過酷さに耐えられるのかと想像してみたら、とても耐えられそうにはなかったですね。周りからは結構投げられてるじゃないかと言ってもらいましたが、僕の心はその時決りました」。現役を退く決意を固めた瞬間だった。
齋藤が再びマウンドに立つことは叶わなかった。だが、本人はこう振り返る。

「結果的には手術をしても復帰までは至ることはできませんでしたが、入団してから練習はもちろんのこと、アップもトレーニングもケアも自分なりに必死にやりました。球団には無理を言って手術もさせてもらえました。トレーナーさんは怪我ばかりの僕をイヤな顔せず必死にサポートしてくれました。それでもダメだった。本当にやることはやった。本当に悔いはなかったし、周りの方々には本当に感謝しかないです」

心残りは皆無だ。10月5日、横浜スタジアムへチームメイトに最後の挨拶をしにスーツで姿を見せた。「寂しさを隠したくて明るく振る舞っていたら、それを察したチームのみんなが『アップ入っちゃいなよー!』と誘ってくれた。試合前の大事なアップであったはずなのに誘ってくれて、なおかつそれを許す雰囲気を作ってくれたことが本当に嬉しかった。みんなのおかげで最後まで自分らしくいることができた」と、選手とともに激走。“らしい”ラストで笑顔の花を咲かし、爽やかにグラウンドを後にした。
第二の人生はファームのサブマネージャーとして再出発することが決まった。「引退する時は球団スタッフ以外の道も含めて考えていましたが、このチームの雰囲気や『齋藤に残ってほしい』と言ってくださった球団、何よりこのチームがとても好きなんです。球団から提示していただいたマネージャーという仕事もとても魅力を感じ、精一杯努めさせてほしいと返事をさせていただいた」と決意する。

「マネージャーはもちろん簡単な仕事ではないです。ただ、僕はこの4年間、年齢やポジション関係なくいろんな選手と仲良くコミュニケーションを取ってきた。そういった面からもマネージャーという仕事は僕の選手としての4年間も仕事に生かすことができる。若手やベテラン、いろんな選手がいるが言葉だけでなく人として本当に信頼してもらえるマネージャーになり、チームの勝利の一因に少しでもなりたいですね」

さらに「どんな時でも『さいとうはん』と、いつも声をかけてくださったファンの方々のおかげでどんなに辛くても苦しくても踏ん張ることができました。応援の力の偉大さを改めて感じることができました。本当に周りの方々に助けられ支えられてできた幸せな野球人生でした。本当にありがとうございました!」と最大限の感謝を示した。

怪我、そして希望に満ちた煌めいた瞬間。そして再び付きまとった怪我……誰よりも明るい言動の裏には、壮絶な戦いがあった。順風満帆にはいかなかったプロ野球生活だったが、その経験を財産に、ベイスターズを裏から勝利に導いていく。

●写真・取材・文 / 萩原孝弘

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