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テニス界に女王ウィリアムズ姉妹を送り出した熱血パパ『キング・リチャード』の超型破りな子育て術<SMASH>

リチャード・ウィリアムズ(写真中央)は二人の娘が生まれる前からテニス界の女王に育て上げるとこと決めていた。(C)Getty Images
キング・リチャード——。

これは、邦題『ドリーム・プラン』として2月末に封切られた映画の、オリジナルタイトルである。

1990年台から2000年台に掛けて女子テニス界を席巻し、今なお現役プレーヤーとして存在感を放つビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹。リチャードは、その二人の革命児の父親であり、二人の女王のテニスコーチでもある。

テニスと縁のなかったリチャードが、ある日、偶然テレビで目にした女子テニス大会の優勝賞金額を知り、「娘が生まれたらテニス選手に育てるぞ!」と妻に宣言したというのは、ある種の英雄譚的に語られる、有名なエピソードだ。

その時から彼は、まだこの世に存在すらしない、我が子の“育成計画書”をしたため始めた。これが、邦題『ドリーム・プラン』の由来。原題の“キング=王様”には、二人の女王を育てたリチャードへの敬意と共に、自身の“計画”を妄信し、傲岸不遜にふるまう彼への揶揄も、多分に込められているだろう。

1942年2月14日、リチャードは5人兄妹の長男として、ルイジアナ州に生まれた。自伝『ブラック・アンド・ホワイト』によれば、家は貧しく、常に肌の色に起因する差別を受けてきたという。

最初の結婚は23歳のとき。5人の子どもをもうけるが、家族から逃げるように離婚して、38歳で再婚した。

その再婚相手こそが、後にビーナスとセレナの母となるオラシーン・プライス。まだ幼い3人の娘を抱えた、未亡人の看護師だった。
再婚した年にビーナスが、その翌年にセレナが生まれてほどなくし、リチャードは“プラン”を実行に移す。当時住んでいたロングビーチから、アメリカでも有数の治安の悪い町として知られるコンプトンへと移り住んだのが、その手始め。

この転居は、リチャードが「タフな環境こそが、チャンピオンを育てるのだ」と主張し、オラシーンの反対を振り切って決めたとされている。だが、本当にそうだったのだろうか? 当時のコンプトンの治安は、今よりもさらに悪かったと聞く。現に、セレナとビーナスの母違いの長女は、コンプトンでボーイフレンドの車に乗っていたとき、ギャングの抗争に巻き込まれ銃弾で命を落としているのだから……。
いずれにしても、リチャードは家族を連れてコンプトンへと引っ越し、パブリックコートで二人の娘の特訓を始めた。テニス経験が無いに等しいリチャードにとって、コーチはテニス雑誌や著名コーチのレッスンビデオ。同時に彼は、独自の練習方法を編み出すアイディアマンでもあったようだ。

例えばサービスの練習では、リチャードは使い古したラケットを集め、これをベースラインからフェンスめがけて投げさせたという。後に、セレナのコーチとなるパトリック・ムラトグルは、「これは理にかなった素晴らしい手法だ」と、“リチャード式サーブ練習”を絶賛している。

“ホームスクール”方式を取って家で勉強を教え、娘のテニス指導に明け暮れるリチャードの姿は、近所でも奇異な目で見られていたという。

その向けられた冷ややかな視線は、テニスの世界でも同様だっただろう。多くの才能ある子どもたちが、ジュニア大会に出場し結果とともに未来のスポンサーを獲得していくなかで、リチャードは、ジュニア大会には娘を出させぬ方針を貫いた。
「まだ幼い子どもを、大人たちの金儲けの道具にされたくない。早期から注目を集め、重圧に潰されたくない」というのが、彼の主張。

その一方で、テニス界の有力者やマスメディアには、「うちの娘たちは、女子テニス界のマイケル・ジョーダンだ」と吹聴して回ったという。そこで、著名テニスクラブやメディアがウィリアムズ家に近づくと、彼は激昂し追い返すことも珍しくなかった。

そのようなリチャードの性向を示す、有名な動画がある。アメリカの大手テレビ局が、14歳のビーナスのインタビューをした時のこと。

「私はトップになれると信じている。多くのトップ選手にも勝てると信じている」

そう愛らしく語るビーナスに、インタビューアーが、「どうして、そこまで信じられるの?」と尋ねた。するとリチャードはインタビューに割って入り、怒気をはらんだ声でインタビューアーを叱責する。

「彼女は自信があると言ってるだろう? なんで水をぶっかけるようなことばかり聞くんだ? ほっといてやれ!」……と。
かくのごとく、ことあるごとに娘との間に割って入るリチャードは、二人の原石に近づこうとする人々にとっては、大きな障壁だったようだ。

ただリチャードにしてみれば、白人本位のテニスビジネスやメディアの世界から、娘を守ることに必死だったのだろう。

そのように、リチャードが常に心のどこかに抱えていた外界への不信感や敵愾心が、不幸な形で表層化した出来事がある。

カリフォルニア州インディアンウェルズで開催される大会で、それは起きた。

インディアンウェルズは、コンプトンから車で2時間ほど離れた砂漠に広がる、のどかなリゾート地。大会会場に足を運ぶ観客には、夏をカナダ、冬をこの地で過ごす“渡り鳥”と呼ばれる富裕層も多い。

2001年、二人はそろって同大会のベスト4に勝ち上がり、準決勝で対戦するはずだった。だが試合開始直前に、ビーナスはケガを理由に棄権を表明。この決断を、観客は「リチャードが仕組んだ出来レース」と捉えた。
翌日……リチャードとビーナスがファミリーボックスに現れると、観客は一斉にブーイングを発する。さらには決勝のコートに立つセレナにまで、容赦なくブーイングを浴びせ続けたのだ。

敵意に四方を囲まれ、それでもコート上では自分を律し勝利したセレナは、試合後、リチャードの胸に顔をうずめて泣きじゃくる。

「とんでもない人種差別だ!」と激昂したリチャードは、以降14年間、娘たちをインディアンウェルズの大会に出場させなかった。

この出来事から、数年後——。

件の試合を動画で見て、「こんなにブーイングされながらも勝つなんて、すごい! わたしも、この人みたいになりたい」と、セレナにまっすぐに憧憬の目を向けた少女がいた。

この時、少女は知っていただろうか? セレナとビーナスこそが、彼女がテニスをする理由なのだと。

「わたしの父は、ビーナスとセレナの父親の本を読んで感激し、わたしと姉にもテニスをさせようと思ったの。だからあの二人が居なかったら、わたしは間違いなく、ここには居ないわ」

自らもツアーを転戦するトッププロとなったとき、大坂なおみは、そう言った。

文●内田暁

【PHOTO】「全力を尽くす」ことをテーマに掲げて挑んだ大坂なおみの全豪OP厳選ショット!

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