
この小柄の身体のどこに、そんなエネルギーが眠っているのだろうか。
伊藤知彦(いとうともひこ)、50歳。身長162cm、体重55kg。
今年50歳を迎えた伊藤は、ウルトラディスタンスに挑戦し続けるトレイルランナーである。
| 年 | 大会・挑戦名 | 距離・期間 |
|---|---|---|
| 2019年 | トルデジアン(イタリア山岳レース) | 334km(5日間12時間) |
| 2022年 | 滋賀一周トレイル | 438km(7日間9時間) |
| 2023年 | 太平洋(熊野速玉大社)~日本海(気比の松原)~太平洋(淡路島縦断) | 1000km(17日間) |
| 2024年 | グレートヒマルレース(ネパールヒマラヤ山脈横断) | 1700km(51日間) |
| 2025年 | トランスピレネー(ピレネー山脈横断) | 900km(16日間23時間) |
ざっと書きながら、常識が麻痺してくる。人は連続50kmくらいは余裕で走れるんだっけ?
意外にも伊藤がトレイルランに出会ったのは30歳を過ぎてからだ。普段は、スポーツ量販店「スーパースポーツゼビオ あべのHoop店」のランニングシューズ売り場で働く会社員でもある。確かに、彼ほどシューズの機能が生命そのものを左右するほど環境にある人間もあまりいない。
柔和な関西弁で笑顔を絶やさない小柄な男が、ときに命がけの挑戦を続ける理由に迫った。

写真:伊藤知彦さん(左)/提供:本人
人生一番の感動体験は“応援団長とした迎えた甲子園出場”
── 驚異的な距離の山岳コースを走り続ける伊藤さんですが、そもそもランニングとの出会いは?
伊藤: 元々僕は小学校から野球をやっていたんです。中学でバレーボールに転向したんですが、背が伸びずにこれは厳しいなと。僕、162cmなんですよ。
ただ、スポーツの能力に自信はありました。近大付属高校へ行けば全てのスポーツが全国レベルだったので、とにかくそこへ入ってから何をやるか決めようと思って。高校でまた野球部に入ったんですが、入った年には2つ上の先輩が甲子園で優勝している、部員は100数十人というような環境でした。
── 全然ランニングじゃないですね(笑)。
伊藤: まだ先です(笑)。結局レギュラーにはなれなかったんですが、本当に誰よりも練習しました。「スポーツで飯を食っていきたい」と必死で、自分の身体能力が上がっていく20歳までが勝負だと思っていたので、本気でやりました。絶対に誰にも負けない練習量をこなしました。
その姿を見ていたキャプテンから、「応援団長をお前がやってくれ」と言われて。応援団長として臨んだ準々決勝でのことです。強豪との試合で、9回裏ツーアウト、3点差。ベンチから「最後まで応援しろ」と言われて、必死に応援したら満塁になって、同点に追いつき、延長でサヨナラ勝ちしたんです。
準決勝・決勝も同様の逆転劇での甲子園を決めた瞬間の感動が、今でも僕の人生の中で一番の感動体験です。「感動の大きさは努力の大きさに比例する」という哲学が、自分の中で確立されました。
── なるほど。レギュラーにはなれなかったけれど、その後の伊藤さんの人生を貫く原体験になったんですね。
伊藤: 大学からはスノーボードに没頭しました。一発目から滑れたので、その後、カナダにこもって練習したり、これも本気で打ち込みました。就職先にゼビオを選んだのも大阪にいたらウインタースポーツできないからという理由もあって、北関東(栃木)のお店の配属になってから年間90日間くらいは滑って、大会で入賞したりしました。
10年くらい本気で打ち込んで、30歳を過ぎて大阪転勤になったとき、もうウィンタースポーツは無理だなと思って離れました。
── 運動能力もそうでしょうけど、その時々に没頭する力が尋常じゃないですね。
衝撃が走ったトレイルランニングとの出会い
伊藤: なので、大阪に戻ってきたときは暇で(笑)。次に何をしようかなと思っていたときに、プロのトレイルランナーの横山峰弘さんという方と高尾山を走るイベントがあったので、無理やり参加させてもらいました。
そこで、もう本当に、自分の中に“激震”くらいの衝撃が走って。
トレイルランニング、こんなスポーツがあるのかと。今から17,8年前ですね。
── そこから山にのめり込んでいくんですね。
伊藤: はい。まずは百名山走破を達成しようと。1日一つの山なら100回行く必要があるんですが、山梨に行って1日3つ、4つ山を登ればすぐ終わるじゃないですか。
── いや...そうかもしれませんけど...1日4山って...。
伊藤: 一応2年で六十数座を登頂して百名山を達成しました。
── え...、会社員生活しながらですよね。
全国のスタッフ200人〜250人くらいがフルマラソンを走れるプログラム
伊藤: はい(笑)。ちょうどその頃、大阪の守口店から梅田店に異動になってシューズ担当になっていたんです。激戦区の梅田地区で売り上げを伸ばしたことで全国店舗で教育の仕組みを広げていくという命題が与えられたんです。
アテネ五輪出場選手や箱根駅伝優勝者らと共に、ランニングイベントのメニューを考え、全国40ヶ所でマラソン完走プロジェクトを実施しました。(お店のスタッフ教育とお客様へのマラソンクリニックなど)そのプログラムを4年間ぐらいやり続けました。
全国の店舗スタッフが年間200人から250人ぐらいフルマラソンを走れるようになることで、各店にフルマラソン経験者が必ずいる状態を作りました。シューズ売り場としては、それが最強だと思ったので。
その合間に山を登り、百名山を走破しました(笑)。
妄想アルプス
伊藤: 百名山をクリアし、100マイルレースやUTMB(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン)などにも出場、世界最高峰レースと言われるトルデジアン(イタリア334km山岳レース)挑戦を達成したのが2019年で、そこからコロナ禍になりました。
── 確かに、あの当時は海外はもちろん、山登りも自粛せざるを得ない状況でしたよね。
伊藤: はい。会社も2日に1回休みになったので、家の近くの坂道をひたすら走ろうと思って、2日に1回、50km走していたんですよ。
── え、2日に1回、50kmですか?
伊藤: はい。それでGW明けに1週間休みをもらって、500km走り続けました。3kmの坂道をひたすら登って下りてを繰り返すだけなんですが。
── いや...もう...よくわからない強度です(笑)。
伊藤: コロナ禍に入る前、北アルプス、中央アルプス、南アルプスを縦走して、そこから富士山に行って田子の浦まで500kmという、日本海から太平洋までを繋げるチャレンジをすると決めていたんです。
それがコロナ禍に入ってできなくなったので、家の近くの坂道で500km走り続けることを“妄想アルプス”と名付け、“いま30km地点”とか“いま剣岳登頂しました”とかをSNSで、山の写真も共有しながら走りました。百名山登ったときの写真はあるので。
世界的に大会もない時期なので、その僕の試みが結構注目されて、雑誌で大きな特集を組んでもらったりしました。
翌年、少しコロナ禍の行動制限が弱まったので、実際のアルプス縦断を実現させました。
モチベーションは“自分に対して向けてくれる思いの強さ”
── 日々の練習もレース本番も過酷だと思うんですが、何がモチベーションなんでしょうか。
伊藤: トレイルランニングって不思議で、夜中一人で走っていると、自分と対峙する時間ばかりで、毎回新しい自分の感情が出てくるんですね。
行動力を支えてくれるのは、人やもの、いろんなことに対する思いの強さだと思います。僕が挑戦する“生きるか死ぬか”という世界で、大げさかもしれませんが、自分の中で生き残れるか死ぬかの線引きは、自分に対して向けてくれる思いの強さだけなんです。
── どういうことでしょうか。
伊藤: いろんな人の思いを感じて、ここで死ねないというのが線引きになるんです。2019年のトルデジアン(イタリア334km山岳レース)で、まさにその瞬間がありました。
334kmをストレート(決められた休憩なし)で走るレースで、その第2ステージが、ちょっと想像つきにくいんですが、1,000m登って1,100m下って1,300m上がって1,400下りて1,600上がる、みたいなコースがあって、その後全部で7ステージもこんなコースが続くのかと思ったら僕は本当に心が折れたんです。
── 伊藤さんでも心折れることあるんですね。
伊藤: 僕、めっちゃ練習していったんですよ。真夏に20km走した後にさらに20km走るみたいな練習してきて、もう仕事もギリギリ、家族もギリギリの状態で喧嘩もするし、人生の中でここまでやっても、通用しない。
これがあと5ステージあると思ったらもう無理だと思ったんです。
── 想像がつかない世界です。
伊藤: 第3ステージが1,000m上がってそこから30km下るコースだったんですけど、それが全部走りきれたとき、“真夏の20km走った後に20km走る練習がここで生きた”と、ちょっと嬉しくなってきて。
夜中、ひとりで走っているとき、ここから先に進むのか、次にで休むのか、もう一人の自分が自分に問いかけるわけですよ。
これだけ恋い焦がれてやってきたトルデジアンだ、俺は進むと答えたときに覚醒しちゃって、もう夜通し6時間か7時間、涙が止まらないんです。高校生の、あの甲子園出場が決まった瞬間の感動を超えるんじゃないかと。
改めて思ったんです、感動は努力の大きさに比例すると。
── すさまじい精神状態ですね。
伊藤: でも、その完走は自分の力じゃなくて、いままで出会ってきた人、こと、が完走させてくれたんです。そのすべてが自分に向けて強い思いを伝えてくれたから完走できた・
ゴールの際に、日本の国旗にフランス語で「トルデジアンのこのゴールは、何かしらに挑戦する人すべてに捧げます」と書いてもらいました。
“ジャパニーズゴール、バンザイ”と叫びながらゴールした瞬間は、自分の経験を伝えていく、と決めた瞬間でもありました。

写真:トルデジアン挑戦中の景色/提供:本人
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