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【レジェンドの素顔10】ジミー・コナーズと母親の異様な親子関係がもたらした光と影│後編<SMASH>
大一番におけるスーパースターたちの大胆さや小心をのぞいていくシリーズ「レジェンドの素顔」。前回に引き続き、ジミー・コナーズを取り上げよう。
ジミーは教育熱心な母親グロリアの支えもあり、テニスの才能を開花させ始めた。一方、グロリアの過剰なジミーへの干渉は彼の人生にどのような影響を与えたのか、詳しく見てみよう。
◆ ◆ ◆
一人前の男子が“母親連れ”で大会をまわるなんて———
グロリアの思惑が見事に的中した。セグラコーチを得て、ジミーの両手打ちバックハンドはグングン上達していく。ラケットを少しオープンに引いて、ライジングで素早く振り切るスイングはここにきて完成した。セグラの両手打ちフォアハンドとジミーの両手打ちバックハンドは全く瓜二つであるとも言われた。
こうしてみると、グロリアは単なる盲目的な「教育ママ」でなかったことがわかる。自分の力が及ばないと見るや、さっさと信頼できる人に引き継がせてしまう。この切り替えは見事である。
しかし、コーチ役は他に譲っても、マネジャー役には固執した。グロリアはジミーの出場する試合には必ず付き添った。ある日、コナーズ親子は、フロリダのジュニアトーナメント会場でエバート親子に偶然会った。エバート親子というのは、クリス・エバートとその父ジミーである。
以前「レジェンドの素顔・エバート編」でも触れたが、エバート氏とグロリアは若い頃、シカゴの同じテニスクラブに所属していた。何度かデートを重ねるくらい親しい間柄でもあった。しかし、結婚までは発展せず、それぞれ別の相手を見つけた。この別離によって、テニス史は二人の稀有のチャンピオンを持つに至るのである。そう考えると、実にドラマティックな気分になってくる。
さて、再会したエバート氏とグロリアは、お互いの子どもがともに有望なジュニアであることに驚く。
このときジミー13歳、クリス10歳。
クリスは、ジミーがなんて母親の言うことを素直に聞く子なのかしら、と感心したという。後に悪童と評され、ひんしゅくを買う原因となった粗野な言動は微塵もなかった。クリスの第一印象ひとつをとっても、少年時代のコナーズが、いかにいい子であったかがわかる。
エバート氏に再会した後のグロリアは、前にも増して、ジミーを激しくけしかけることになる。かつての恋人に対抗意識を燃やした結果だった。つまり、どちらの子どもがより優れたプレーヤーになるか、競争しようというわけだ。
尻をたたかれる方のジミーもたまったものではなかった。しかし、少年時代の彼は、母親の前では逆らったりしなかった。その従順さは青年期まで続く。たとえば、こんな象徴的なシーンがあった。当時のことをクリスが回想している。
1972年。ジミーは20歳になっていた。ウインブルドンの前哨戦ともいうべきクイーンズ・クラブでのトーナメントの日、ジミー親子とクリス親子は偶然出会った。ジミーのそばにはグロリアがピタリと寄り添っていた。
この親子は、プレーヤーの間でちょっとした評判になっていた。それはそうだろう。20歳にもなった一人前の男子が、“母親連れ”でサーキットをまわるなんて、これまで聞いたこともなかった。
グロリアは出しぬけにジミーに言った。「ジミー、ウインブルドンでミックスを組まないかって、クリスに頼んでみたら?」言われたジミーは、母親の言葉をクリスに向かってただ繰り返した。
「ウインブルドンでミックスを組んでくれないか?」
「ありがとう。でも、もうパートナーが決まっているのよ」とクリス。
「じゃ、USオープンを頼んだら?」
すかさずグロリアはジミーに問いかける。
「USオープンはどうだい?」
グロリアのいうままに、ジミーはクリスにそう聞いた。
「ええ、いいわ」
とクリスは答えた。しかし、ジミーの本心がつかめなかった。単に母親を満足させるためだけに、ジミーがミックスを申し込んできたと思えたからだ。まるで主体性のないジミーにクリスはもの足りなさを感じた。
こんなこともあった。クイーンズ・クラブのトーナメントで、クリスとジミーは優勝した。ジミーが優勝した直後、クリスはグロリアに呼び止められた。
「待っているように伝えてくれって、ジミーに頼まれたんだけど、ご都合は? 今、シャワーを浴びているのよ」。クリスは少し待ったけれど、来る様子がないのでホテルに戻ってしまった。デートの申し込みを母親に頼む人っているのかしら。そんな不信感がクリスの心に充ちていた。
一本立ちし、新たなテニス人生を歩み始めた
こうしたやりとりが伝えているのは、ジミーがいかに母規ベッタリであったかということである。だが、母親に従っていくことで、ジミーは自らの才能を開花させた。ジミーにとって、グロリア以上の名コーチ、名マネジャーはいなかった。
しかし、ひずみを生んだことも確かである。母親に従順な子にかぎって、他人に対して“違う顔色”を見せる。ジミーもまた、母親以外の人には、傍若無人なふるまいが目立った。
顕著なのは、コートマナーの悪さである。テニス史上で、コートマナーの悪かったプレーヤーを3人挙げろといわれれば、イリ・ナスターゼ、ジミー・コナーズ、ジョン・マッケンローということになるだろう。ナスターゼやマッケンローと同格に扱われるほどだから、デビュー当時のジミーは正真正銘の“悪ガキ”だった。
先輩プレーヤーに対する尊大な態度は周囲の非難のマトになった。“恥知らず”とまで言われたものだ。しかし、グロリアにとっては、そうした非難はどうでもいいことだった。この完璧な合理主義者は二兎を追ったりはしない。一兎だけを狙った。つまりナンバーワンになりさえすれば、それで良かったのだ。
名声はタイトル数に応じて後からついてくるとさえ考えていた。「教育ママ」に尻をたたかれ通しだったジミーは、精神のアンバランスを露呈しながらも、ついに頂上に昇りつめた。ジミーの出場する試合は“カモン・ジミー!”と大声を張り上げるグロリアの姿がいつもあった。
後年、ジミーは「自分はテニス・プレーヤーとしては不運な境遇に生まれた」と語ったことがある。この言葉はもちろん彼一流のジョークと受け止められた。幼い頃からテニスに親しめる環境を持てたことは“不運な境遇”などでは決してない。むしろ、“最高の境遇”とさえ言えるほどだったからだ。
しかし、ジミーが内に秘めていた苛立ちを考えてみると、この言葉は単なるジョークで片づけられないものがあるのかもしれない。
1974年に全豪、全英、全米を制し、強さをほしいままにしたジミーも、1975年以降は、ここ一番での勝負弱さが目立った。調子の波に乗ると圧勝するのだが、少しでも接戦になると粘り負けする。格下と見られていた選手にもコロコロ負けるし、強靭な精神力を誇るボルグにはいつも苦杯をなめた。
ジミーが真に復活するのは、全英、全米を連覇した1982年である。子どもが生まれ、円満な家庭が心の支えになったとジミーはよく語っている。
母親グロリアのもとを離れ、男として一本立ちしたとき、ジミーは新たなテニス人生を歩み始めたのである。
文●立原修造
※スマッシュ1987年5月号から抜粋・再編集
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