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卓球・日学連新会長はプロ経営者 菱洋エレクトロ社長 中村守孝氏インタビュー【前編】

オリンピック博士と呼ばれて

――中村社長ご自身に卓球経験はあるんですか。
中村守孝社長:桐朋という、当時東京でそれなりに強い中学・高校でやってました。私も中学時代には東京都大会の地区予選で優勝するようなことはありましたが、でも関東大会やまして全国大会には全く手が届かなかったですね。

毎日卓球ばっかりで、休みの日も(明治大学卓球部の拠点であった)平沼園に練習に行ったり。当時私が中学生で、大学生だった前原正浩さんと試合して、コテンパンにされました。先日お目にかかりましたが、全くご記憶にはなかったようで(笑)。

大学は慶応に行き、卓球は高校で辞めましたが、ずっと好きでしたね、卓球は。

写真:中村守孝氏(菱洋エレクトロ代表取締役社長)
写真:中村守孝氏(菱洋エレクトロ代表取締役社長)/撮影:伊藤圭

――引退した後も、ずっと卓球を見続けたんですか。
中村守孝社長:ええ。だから、いま卓球界の諸先輩方と溶け込むのも早いですよ、何も仕込まなくても頭の中に入ってますから。先月も学連の場で、1975年のカルカッタ世界選手権準決勝の話を差し上げたら高島規郎さんご本人が驚いてましたよ(笑)。

また前職の人事部長時代に高松三越へ出張した際に、大学の先輩でもある德永尚子さん(旧姓深津、1965年世界チャンピオン)が女将をされている料亭を突撃訪問したりもしました。

――競技を辞めても、ずっと興味を失わなかったんですね。
中村守孝社長:スポーツとしての魅力と、そこで活躍するアスリートに対する敬意は、卓球に限らず、ずっと持っていたからでしょうね。

私の場合小学生から中学生にかけて“オリンピック博士”と呼ばれるほど、ずっとスポーツ全般を見るのが好きだったものですから。大学卒業後はスポーツ新聞の記者になりたかったくらいです。

写真:水谷隼(木下グループ)・伊藤美誠(スターツ)/提供:ロイター/アフロ
写真:東京五輪で金メダルを獲った水谷隼(木下グループ)・伊藤美誠(スターツ)ペア/提供:ロイター/アフロ

きっかけはメキシコオリンピック

――そこまでスポーツを好きになるきっかけって何かあったんですか。
中村守孝社長:いま思えば、1968年のメキシコオリンピックですね。当時私が9歳。ちょうどオリンピックが始まったときにひどい風邪を引いて小学校を休んだんですよ、10日間くらい。

その間、ふとんの中でずっとテレビで見て、その世界にものすごく興奮して心惹かれましてね。

――風邪を引いたおかげで(笑)。
中村守孝社長:ええ(笑)。日本も金メダルを11個獲ったのかな、重量上げの三宅義信さんとか、レスリングの上武洋次郎さんとか。

もうお亡くなりになりましたが、女子体操にはまだチャスラフスカさん(チェコスロバキア)がいたり、その後も長らく破られることのなかった陸上走り幅跳びの世界記録8m90cmが出たり。初めて人類が陸上100mで10秒を切ったのも、そのときですね。

それぞれのあまりの素晴らしさに心を打たれて、気付いてみたら全部丸暗記しちゃったんですよ。

表彰式で、黒い手袋で人種差別に抗議する有名なシーンもありました。

メキシコオリンピック
写真:メキシコオリンピック表彰式で人種差別に対する抗議を示したシーン/提供:Everett Collection/アフロ

中村守孝社長:まだプロ化も商業化の波も来ていない、とてもスポーツらしい時代の世界のアスリートに小学校の多感な時期に魅了された、それが原体験だと思いますね。

中村守孝氏(菱洋エレクトロ代表取締役社長)) 
写真:資料も何も見ずにすべて暗記している中村守孝氏(菱洋エレクトロ代表取締役社長))/撮影:伊藤圭

男の眼が光る

論理と美意識が交互に顔を出す、自信に満ちた語り口である。日本学生卓球連盟の会長に就任したこの人にとって、卓球部時代の経験も経営者としての礎の一助となっているのなら、ぜひ聞いてみたい。

“これから社会に出る卓球部の学生や若手社会人にもアドバイスを”と持ちかけたとき、不意に中村社長の眼がギラリと光った気がした。

「卓球で得た何かを社会に活かす?難しい質問ですね。」

更に、男の舌鋒は鋭くなったのだった。

(【後編】卓球で得たものを社会人生活に活かすたったひとつの方法 日学連新会長就任・菱洋エレクトロ社長 中村守孝氏インタビュー へ続く)

中村守孝氏(菱洋エレクトロ代表取締役社長)
写真:中村守孝氏(菱洋エレクトロ代表取締役社長)/撮影:伊藤圭

取材・文:槌谷昭人(ラリーズ編集長)

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