荻村伊智朗がデザインした世界初の卓球専用シューズ その復刻に懸けたドイツ人起業家の物語
荻村伊智朗という名前を聞いて、卓球シューズのことを思い浮かべる人はそう多くないかもしれない。
“ミスター卓球”と呼ばれ、プレーヤーとしても、指導者としても、そして1994年に亡くなるまでの7年間務めた国際卓球連盟会長としても、選手の地位向上や、世界各国への卓球普及など、彼が遺した比類なき業績は枚挙にいとまがない。
写真:故・荻村伊智朗氏/提供:アフロ
とりわけ、1991年の世界選手権千葉大会での史上初「コリア統一チーム」実現をはじめとするスポーツ外交面での荻村の功績は、62歳で亡くなって約28年経った今なお「卓球にできること、スポーツの可能性」を、北極星のように私たちに指し示してくれる。
だが今回は、とあるシューズの話をしよう。
荻村伊智朗の遊び心についての話をしよう。
特に私たち日本人が“偉大な”、“レジェンド”と形容する男の、おしゃれさ、スタイリッシュさ、そしてポエジーを、二人のドイツ人起業家が見つけた話である。
「なんてクールな風貌だろう」
きっかけは、1冊の本だった。
二人のドイツ人起業家、マックス・ファン・ラークとフィリップ・エガースグリュースが、ドイツの卓球メーカー・JOOLAのコンサルティングの仕事をしていたときのことだ。
その倉庫で、1冊の卓球技術書を見つけた。
写真:英語版の荻村伊智朗の卓球技術書/提供:ITS三鷹卓球クラブ
「クールな風貌の男と、美学に満ちた本だ」ページをめくるたびに目を奪われた。
ちなみに二人に卓球経験はほとんどない。しかし、そこに込められた美的感覚にすぐに魅了された。
写真:当時きっと先鋭的だった図解/提供:ITS三鷹卓球クラブ
彼の名前を検索すると、伝記があることを知り、読み始めた。二人は驚いた。
「なんて男だ。伝説的なプレーヤーであるだけでなく、こんなにたくさんの人や物事を動かしたなんて」
写真:英語版の「ピンポンさん Life of Ichiro ogimura」/撮影:槌谷昭人
そして、こうも思った。
「なぜ私たちはこれまで、彼のことを知らなかったのだ」と。
写真:荻村伊智朗/提供:ITS三鷹卓球クラブ
“文化”としての卓球
荻村伊智朗が生涯を賭して世界中に伝えた“卓球”は、欧米では、スタートアップ企業のオフィスで気分転換に卓球を楽しむような、競技スポーツというより、カルチャーとして広がりを見せる。
写真:ヨーロッパの街や公園に置かれる卓球台/撮影:ラリーズ編集部
自身も中学生の頃から荻村に指導を受け、荻村の作った日本初の会員制卓球クラブ“ITS三鷹”を継承して経営する織部幸治は、こう言う。
「やっぱり、荻村さんが作り出すものの中に、そういう要素もあったんだと思いますよ。とっても文化を大事にした人だったから」
写真:織部幸治(ITS三鷹)/撮影:槌谷昭人
「欧米の人たちのほうが、遊びかたがうまいですよね。だから、荻村さんの精神を感じ取る受信機を持っているんだと思う。むしろ今、我々日本人のほうが、勝負、勝負、と、スポーツの中の勝ち負けの部分だけにこだわっている気がします」
そうかもしれない、と思った。
多方面に才能と実績を持つ人間が亡くなった後、その多面体の仕事を語り継ぐ機会は年を追うごとに少なくなり、象徴的な実績への言及が増える。
それに従い、例えば、荻村の情熱、行動力、厳しさ、妥協の無さは今も語り継がれるが、そのおしゃれさや遊び心、ポエジー(詩心)のような柔らかな精神こそ、織部氏にとっては、生前の荻村さんを思わせる、懐かしいものなのかもしれない。
写真:荻村伊智朗が作った詩/撮影:槌谷昭人
「修行だけして遊びをしないという人では全くないです。じゃないと映画なんて撮りませんよ(笑)。」
荻村が日本大学芸術学部映画学科の卒業制作として、映画「日本の卓球」を作り、その映像が中国を始め海外で“卓球技術指南のバイブル”として、広く親しまれたことはよく知られている。
そういえば、マックスが“イチロー・オギムラ”を見つけたときの感慨を、興奮気味にこう語っていた。
「イチロー・オギムラの持つスタイリッシュさは、フレッド・ペリーやラコステといったブランドになりうる存在なのに」
いま、日本人以外のほうが、柔軟に「荻村伊智朗」を再発見しているのかもしれない。
写真:マックス・ファン・ラーク/撮影:槌谷昭人
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