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卓球を教えてくれた父が41歳で他界 全国大会決勝で少年を支えた“父との約束”

「振りを覚えておいて」

その後も、純一さんは時折、勤務先の中学校に出勤を続けながら、近くの体育館を借りて子どもたちに卓球を教え続けた。小学校の勤務がある瑠実さんに代わり、子どもたちへのご飯も純一さんが作った。

瑠実さんも週4日は必ずボール拾いに行き、一緒に過ごした。
「振りはこうだから、覚えておいて」純一さんに言われたことを、卓球未経験者の瑠実さんは懸命に覚えた。

「球出しくらいできるようになりたいって言ったんですが、“お前には無理”って言われて(笑)」

ハイテンション裏ソフトラバー REDMONKEY ぼくらが欲しいラバーを作りました。Rallys編集部## もう一つの使命だった“命の授業”

家族との卓球の時間に加えてもう一つ、病と戦う純一さんを支えたものがある。
“命の授業”だ。

「保健体育は、どうしても保健のほうが簡単に扱われてしまう。いまの自分が生徒たちに生きることの尊さを伝えることは使命だ」
父であると同時に、教育者としての自分も全うしようとしていた。

2021年12月、教職同期の教諭が用意してくれた県内の中学校の授業で、純一さんは生徒たちに語りかけた。

1日1日を大切にしてほしい。
前向きに考えて自分を好きになれば幸せに生きやすくなる。

“中学生たちの目が輝いていた”と、当時の地元紙の記事が伝えている。

「千回を目指したい」と授業後に明るく語ったその言葉にも、闘病中でも失わなかった、純一さんの前向きさが滲む。

中野純一
写真:中野純一さんの“命の授業”を伝える地元紙記事/提供:中野瑠実## 「おめでとう、でも実は」

しかし、病は確実に進行していた。

2022年1月28日。
中野純大が東アジアホープス日本代表選考会のため、東京に向かった日に、純一さんは入院した。
「生きているのが不思議なくらいの数値です」医者はそう言った後、こう続けた。「本当に強い人です」。

純大は、その重要な選考会で、日本代表の座を勝ち取った。
周囲の人間がみな「今までで最高のプレーだ」と、目を見張るような戦いぶりだったという。

純一さんの携帯には、純一さんを慕う多くの指導者たちから選考会の途中でも逐一知らせが来ていた。
「純大、勝ったよ」「純大、代表入れた」

中野純大
写真:中野純大(宇土クラブ)/撮影:ラリーズ編集部東京から急いで戻って来た純大と話しながら、純一さんは泣いて喜んだ。

瑠実さんは、こう振り返る。
「本当はお祝いもしたかったんですが、おめでとうの後に“実は”という話をしなければいけなかったんです。子どもたちには2月越えられるかどうかという話もしていましたので」

純一さんが亡くなったのは翌週、2022年2月4日だった。

数多くの友人から来ていたメッセージを、耳元で瑠実さんが読み聞かせ続けた。

最期まで人に好かれ、人を大切にした、中野純一さんの生涯だった。

中野純一さん
写真:中野純一さん/提供:中野瑠実(後編 「お父さんがいないと勝てない」どん底を乗り越えてきた中野家のスローガン は9月3日公開)

>>「あきらめないこと、仲間を応援すること」指導者たちの夏<全国ホープス取材を終えて>

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