
バスケットボールの練習や試合会場では、当たり前のように音楽が流れている。シューティングの合間、試合前のアップ、タイムアウト中。気づけば、バスケと音楽は切っても切り離せない存在になっている。
実際、筆者自身も小学校から大学までバスケットボール部に所属し、練習前後のシューティングや自由にプレーできる時間には、MDに入れた音楽を流しながらボールを触ってきた世代だ。他の部員や、時には女バスがかけている曲をきっかけに、新しい音楽ジャンルを知ることも少なくなかった。
一方で、不思議なことがあった。
隣で活動していたバドミントン部やバレー部が音楽をかけている光景は、ほとんど記憶にない。友人に聞いても、野球部やサッカー部でも同じような習慣はなかったという。プロスポーツを見渡しても、この傾向は変わらない。日本のBリーグではDJが会場を盛り上げ、NBAでも試合と音楽は完全に一体化している。なぜ、数あるスポーツの中で、バスケットボールだけがここまで音楽と近い距離にあるのだろうか。
本稿では、バスケットボールと音楽、特にヒップホップがなぜ強く結びついてきたのかを、文化と歴史の視点から紐解いていく。まったく異なるはずの二つのカルチャーが、なぜ共存し続けてきたのか。その理由に迫る。
HIPHOPが生まれた場所
まず前提として、「ヒップホップのアーティスト」と聞いてあなたは誰を思い浮かべるだろうか。代表例として、アメリカであれば、ヘッドホンブランド「Beats」を設立したDr. Dre、昨年のNFLスーパーボウルでパフォーマンスを披露したケンドリック・ラマー、レジェンドのエミネムやJay-Zなどが挙げられるだろう。日本でも、ZeebraやTeriyaki Boyz、近年ではCreepy Nutsなど、時代を象徴する存在がいる。
重厚なビートとリズム、その上にリズミカルな言葉(ラップ)が乗る――それがヒップホップ最大の特徴だ。では、そのヒップホップは一体どこで産声を上げたのか。まずは、その前提から整理していきたい。
ブロンクスと屋外コートの距離感
ヒップホップというカルチャーは、1970年代のアメリカ・ニューヨークのブロンクスという小さな街で誕生した。MLBニューヨーク・ヤンキースの本拠地であるヤンキー・スタジアムが位置する地区であり、「ブギー・ダウン・ブロンクス」という愛称でも知られている。
1970年代のブロンクスは、ニューヨーク市の中でも特に貧困と荒廃が深刻だった地域。失業率は高く、治安も最悪。行政サービスも十分に行き届かず、白人の中産階級が郊外へ流出した(いわゆるホワイトフライト)結果、街は急速に荒れていった。若者たちにとって、学校や整った体育施設は身近な存在ではなく、空き地や公園、屋外のバスケットボールコートが主な居場所となっていた。
彼らにとって、勉強や仕事によって評価されるルートは極めて限られていた。そのため、自分の存在を示す手段は「それ以外」に求めるしかなかった。歌う、踊る、アートを描く(グラフィティ)、そしてバスケットボールで魅せる。こうした表現が同時多発的に行われていた場所こそが、ブロンクスの空き地や屋外コートだった。ヒップホップもバスケットボールも、こうした公共空間から自然発生的に生まれている。両者の距離が近かったのではなく、「最初から同じ場所に存在していた文化」だったのである。
パーティーとピックアップゲーム
当時の若者たちは、公園や空き地で「ブロックパーティー」を開くことが多かった。ちなみに「ブロックパーティー」とは、屋外の非公式パーティーのこと。道路を封鎖して街灯や電柱から電源を引いてスピーカーを並べて音楽を流しながら、DJがレコードを回してMCがマイクパフォーマンスをし、ダンサーが踊るなどの総称である。食事を楽しんだりする場所ではない。
そもそもなぜブロックパーティーが行われていたか、と言えば、シンプルにクラブに行くお金がなかったことや、黒人は街から排除されていたこと、またそれ以外の娯楽施設がなかったからである。誰でも参加でき、その場で自分が評価され、上手い人がヒーローになる。そうしてヒップホップの価値が育っていった原点とも言えるだろう。ちなみに、このパーティーの主催の代表例であり、ヒップホップの生みの親と言われる「DJ Kool Herc」は、このブロックパーティーで姉の誕生日パーティーを開いたという逸話がある。それがヒップホップの始まりとも言われている。
このブロックパーティーの開催地のひとつが、ブロンクスのストリートにあるバスケットボールコートである。DJが音楽を流し、ラップやダンス、アートで自己表現をする一方、同じ空間でバスケットボールがプレーされていた。
やがて、こうした場は単なる遊びの空間にとどまらず、ピックアップゲーム(ストリートでの3on3など)が自然発生的に行われる場所として定着していく。コートではバスケの試合が行われ、その隣ではパーティーが開かれる。音楽とバスケットボールが同じ空間で同時に存在していたことが、両者の結びつきをより強固なものにしていった。
ARNOLD DUGGER
Dugger was born on November 30, 1955 in The Bronx, New York. He was a star at DeWitt Clinton High School and a New York streetball legend long before he entered Oral Roberts University, helping to put the team on the national basketball map!
A slick ballhandler… pic.twitter.com/r06nUa3DSI
— The NYC Basketball History Project (@nycbbhistory) September 23, 2025
バスケに音楽がなかった時代
現代のバスケットボールに音楽が深く入り込んでいる流れについては前章で触れた通りだが、そもそもバスケットボールという競技自体は、はるか以前から存在していた。NBAが、BAA(Basketball Association of America)とNBL(National Basketball League)の統合によってリーグとして本格的にスタートしたのは1949年のことであり、競技そのものはそれ以前から行われている。
当然ながら、その時代のバスケットボールにおいて、試合中や演出として音楽を流すという文化は存在しなかった。そもそも、そうした発想自体がなかったと言っていい。1950年代のアメリカでは、スポーツは「静かに観るもの」という価値観が一般的であり、競技は厳粛なものとして扱われていた。会場で流れる音も、あったとしてオルガンによる簡単な演出程度に限られていたとされている。要するに、スポーツは白人中流階級〜上流階級向けの「高貴なエンタメ」だったのだ。
当時のNBAの観客層は白人中産階級が中心で、バスケットボールは彼らに向けたエンターテインメントとして消費されていた。いわゆるホワイトフライトの時代背景もあり、ストリートや黒人コミュニティの文化とは明確な距離があった。バスケットボールと、ブロンクスで育まれていたストリートカルチャーや音楽文化は、この時点では完全に「断絶」していたのである。次章で紹介していくが、このバスケットボールの観戦構造は、この後、時代の変化とともに大きく崩れていくことになる。
余談だが、野球やサッカーには、現在に至るまでバスケットボールのように音楽と共存する文化がほとんど存在しない。甲子園では応援歌やトランペットの演奏が日常だが、プロ野球の試合中継で、ピッチャーが投球する瞬間に音楽が流れる光景を見たことがあるだろうか。サッカーも同様で、フリーキックの場面はブーイングや応援が日常で、音楽を爆音で流すことはない。
これは競技構造の違いが大きく関係している。野球は「間」を楽しむスポーツとも言われており、投球前の静寂や、ランナーが走り出す瞬間の緊張感そのものが演出として成立している。ここに音楽が入り込めば、それは演出ではなくノイズになってしまう。サッカーの場合は、観客が主体となって応援する文化がすでに完成されている。チャントや応援歌を歌い続けるスタイルが根付いており、言ってしまえば観客自身が「音楽装置」なのである。そのため、DJや外部から流される音楽がなくとも、スタジアムは十分に熱狂できる。
逆に言えば、バスケットボールは観戦文化という点で、まだ「未完成」だった。だからこそ、後に音楽という要素を強く求めることになる。
今では音楽や演出は”デフォルト”だが、これらはその昔、一切なかった
70年代後半のざわつき──バスケが変わり始めた瞬間
1950年から60年代のNBAは、前途の通り「静かで、高貴で、管理体制が徹底された、ストリートとは全く別物のバスケットボール」であった。
だが1970年代に入ると、その前提が少しずつ崩れ始める。観客の熱量、選手の個性、そして”音”を受け入れる余地が、アリーナの中に生まれ始めたのだ。
ABAという異物の存在
NBAは1949年に「BAA」と「NBL」を合併して誕生したが、1976年に「ABA(American Basketball Association)」も吸収合併して、現在の形になる。この1976年に吸収合併した「ABA」がかなり異質な存在であった。
そもそも「ABA」は、1967年に誕生した後発のプロバスケットボールリーグである。この時点でNBAはすでに確立された「正統派プロバスケリーグ」として社会的な認知を獲得していたが、「ABA」は「NBA」を見て、雑にいうと「つまらない」と感じた人たちによって立ち上がったリーグである。歴史や信用、スターの多さではNBAには敵わないが、試合そのものを”ショー”のようにすることが自分たちの勝てる勝ち方なのではないか。そう考えた彼らは、「派手なダンク」「早い展開」「観客が盛り上がる仕掛け」など、バスケのルールを知らなくても直感的に楽しめるようにバスケを設計した。その象徴が「3ポイントライン」であり、アメリカらしい「青・白・赤」のカラーボールだった。茶色のシンプルなボールを彼らが使うことはなかった。この派手さやエンタメに富んだ設計が、黒人コミュニティや若者たちに刺さり、ABAも彼らの存在を大歓迎して会場に迎え入れた。
一方のNBAは、ABAのことを「下品である」「あれはバスケではない」などと最初は否定的だったが、観客が喜ぶ姿、若者だから出せる活気、口コミで広がる人気を隣で見ていて羨み、そのままそっくり取り込むことを決める。彼らは高貴なスポーツから脱却し、来た人を喜ばせるための方向に舵を切ったのである。エンタメ性は、正しさよりも強かったのである。
この結果、1976年にNBAはABAを吸収する。
吸収した後、これまでの白人の中流から上流階級だけではなく、都市部の若者や黒人コミュニティを取り込んでいく。最初からいきなり融合したわけではないが、少なくとも拒絶することはなくなり、徐々に黒人文化やストリートが持つエネルギーが伝染し、アリーナに熱狂が生まれていった。
アリーナにビートが鳴った瞬間
ABAを吸収したNBAは、バスケットボールのアリーナで少しずつ「音」を出すことへの挑戦を始める。それまで支配していたのは、ボールが床に弾む音と、スニーカーがきしむ音、そして観客の拍手だけだった。しかし、その静寂の合間に、リズムを刻むビートが入り込む余地が生まれた。
この変化は、前述の通りABAの影響が大きい。ABAによって持ち込まれたエンターテインメント性、若者向けの演出、そして観客を“参加者”として扱う思想が、少しずつNBAにも浸透していった結果である。試合の合間、タイムアウト、選手紹介。競技と競技の「隙間」に、音楽が入り始めた。重要なのは、この時点で流れていた音楽が、まだ明確にヒップホップではなかったという点である。ファンク、ディスコ、ソウル。いずれも黒人コミュニティで育まれてきた音楽であり、ヒップホップ誕生の土壌となったジャンルである。アリーナは、知らず知らずのうちに、そのリズムを受け入れていた。
バスケットボールはこの頃から、試合そのものだけでなく、空間全体で観客を高揚させるスポーツへと変わっていく。ビートは、プレーを邪魔するノイズではなく、熱狂を増幅させる装置として機能し始めた。アリーナに音楽が流れたその瞬間、バスケットボールは再びストリートと同じリズムを取り戻し、そしてこの流れは、やがてヒップホップがNBAの“公式な音”として鳴り響く時代へとつながっていく。
#OTD 1967, the American Basketball Association formed to rival the @NBA. The @Pacers were an inaugural franchise & played in the ABA for its 9 years of operation, winning 3 championships. The team featured Naismith Hall of Famers like Coach Bobby “Slick” Leonard & George McGinnis pic.twitter.com/vZBYmjaaXN
— Indiana Historical Bureau (@in_bureau) February 2, 2023
元々ABAに所属しており、現在のNBAにも所属しているのは、インディアナ・ペイサーズ、さんアントニオ・スパーズ、デンバー・ナゲッツ、ブルックリン・ネッツの4チームだけである
マイケル・ジャクソンとマイケル・ジョーダン
知らない方のために。マイケル・ジャクソンは、アメリカで史上最高のエンターテイナーとして呼び声の高い歌手でありダンサーである。代名詞の「ムーンウォーク」は、彼の「Billie Jean」という曲の中で披露されるパフォーマンスだが、彼が世界にインパクトを与えたのは1982年に発売されたアルバム『スリラー』である。このアルバムは全世界で1億枚以上を売り上げ、「世界で最も売れたアルバム」としてギネス世界記録に認定され、また13のグラミー賞受賞を受賞するなど、アメリカの音楽業界を最も牽引した存在だ。
また、マイケル・ジョーダンは、今も伝説的に語り継がれる「バスケの神様」である。1984年にNBAデビューしてから、3連覇を2回達成するなど今も破られない数々の記録の持ち主で、彼が着用した背番号「23」は、バスケットボールをプレーする人間にとっては憧れの数字である。
ほぼ同時期に、違う世界で圧倒的な存在感を放った2人のマイケルは、1992年についにタッグを組む。1992年にマイケル・ジャクソンが発表した『Jam』のミュージックビデオに、マイケル・ジョーダンが本人役として出演したのである。
注目すべきは、単なる有名人同士の共演では終わっていない点だ。
映像の中でジャクソンはジョーダンにダンス、象徴的なムーンウォークを教え、ジョーダンはジャクソンにバスケットボールを教える。それぞれが異なる分野で“神格化された存在”でありながら、自分の技術を相手に差し出し、学び合う構図が描かれている。この演出は、音楽とスポーツが上下関係ではなく、同じ文化のフィールドに立っていることを強く印象づけた。どちらが主役でもなく、どちらも完成された表現者であるというメッセージが、自然な形で映像に落とし込まれている。
制作背景もまた、この作品の象徴性を強めている。
撮影はシカゴの屋内バスケットボールコートで行われ、ドキュメンタリーに近いカメラワークで進められた。監督は脚本に縛られず、即興性を重視した撮影だったと語っており、このスタイルは後にヒップホップ文化の中核となる「即興性」や「ライブ感」とも感覚を共有している。さらに『Jam』の映像は、NBAのプロモーションや、シカゴ・ブルズの1992年チャンピオンシップ映像『Untouchabulls』にも使用されるなど、リーグ側からも公式に受け入れられた。これは、音楽とバスケットボールの関係性が、もはや非公式なものではなく、ポップカルチャーとして公に結びついた瞬間だったと言える。
このコラボレーションが特別だった理由は明確だ。
マイケル・ジャクソンは音楽の世界における絶対的アイコンであり、マイケル・ジョーダンはスポーツの世界における絶対的アイコンだった。その二人が、対等な立場で同じ空間に立ち、互いの表現をリスペクトし合う姿は、90年代という時代の空気そのものを象徴している。
『Jam』は、単なるヒット曲でも、話題性のあるMVでもない。
それは、バスケットボールと音楽が「同じ文化圏に属する存在」であることを、誰の目にも分かる形で可視化した作品だった。ストリートで生まれ、一度は断絶し、再び交わり始めた二つの文化。その関係性が、世界的なポップカルチャーとして結実した一つの答えが、この映像だったのである。
【参考】
How Hip-Hop and Basketball Evolved Together in New York City
https://slamonline.com/nba/kurtis-blow-basketball/
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