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「想像できることは、だいたいできる」。フットクラウン社長・牟田口勇人の生き様|日本一のユニフォームメーカーへの軌跡

中1でサッカーを始めた選手がFリーガーに 

──少し原点のお話ですが、牟田口さんはいつからフットボールを?

中学1年生の終わり頃にサッカーを始めました。

──最初はサッカー。しかも遅めですよね。

そうですね。それまではピアノや水泳、習字、体操などを習っていました。小学5年生からは中学受験のために塾に通い詰めていて、勉強ばかりしていました(笑)。

──では、なぜサッカーに?

日韓ワールドカップが行われた2002年に中学1年生だったのですが、サッカー部から「今11人しかいないから入ってよ」と誘われたことがきっかけです。

それまでは帰宅部でしたね。テニススクールに通っていたのですが、サッカーとは無縁の生活でした。同じクラスにサッカー部が4人くらいいたことも入部した理由です。

──いきなりサッカーを始めたわけですね。

まあ、3年間ベンチでしたけどね。最後の大会だけは出場できましたけど本当にヘタクソで。最初の練習で「インステップシュートって何?」と聞いたくらいですから(笑)。でも、もともと負けず嫌いではあったので続けられたのかなと思います。

──卒業後もサッカーを続けたんですか?

高校に進学すると、そのままサッカー部に進む人と、クラブチームに行く人、やめる人がいました。僕が通った高校のサッカー部が「月まで走る」というテーマを掲げていて、3年間で月までの距離(38万km)を走りきるような、とにかく走るチームでした(苦笑)。毎日走りのメニューがあり、それが嫌でサッカー部には入らず、町のクラブチームに行きました。でも、これだと上手にはなれないと感じて、インターネットで社会人のフットサルチームを調べて、当時、大阪府リーグ3部に所属していたフエルテ大阪に入りました。

──そこでフットサルを選んだ。

高校時代はクラブチームでサッカーをしながら、フエルテでフットサルという両方ですね。このままではうまくなれないという思いからフットサルも始めました。

──では「Fリーグを目指す!」とか、そういう感じでもなく?

そんな、まだまだ。Fリーグも、日本代表も見えていない段階でしたし、どちらかというと試合に出たいという気持ちが強かったという感じですね。

──大阪府リーグ3部からFリーグの舞台に進んでいくわけですね。

ただ、サッカーに打ち込んだ時もあります。大学生の時もフエルテでプレーしていましたが、19歳くらいの時にFC鈴鹿ランポーレ(現・アトレチコ鈴鹿クラブ)のセレクションに合格したので、そこから約1年半はサッカー漬けの毎日を過ごしていましたね。

──その後、フットサルに専念するように。

いや、まだ両方やっています(笑)。大阪に戻って関西リーグのサッカーチームにも入りました。FC鈴鹿ランポーレで週5日練習していたおかげで実力がぐんと上がり、フエルテでも試合に出られるようになりました。フットサルに絞ろうと思ったのは25歳くらいです。

──なぜ、フットサルに?

所属していたサッカーチームをやめたタイミングでフエルテに戻ったのですが、もっと成長したいという欲が芽生えて、デウソン神戸のサテライトの練習に参加させてもらうことになりました。

──ちょうどF2のカテゴリーができたタイミングですよね。

そうですね。チームはF1からF2に“自主降格”してカテゴリーを下げていたのですが、残った選手がほとんどいないなかで、僕も10試合くらい出場できました。

夢にまで見た舞台でプレーできましたが、結局は1年でやめることになってしまい、もっと続けたい、もっと試合に出たかったという気持ちはずっと残ったままですね。

正直、デウソンの主力選手と比べてレベル差はあると感じていましたし、Fリーグの舞台には立ったけれど、いわゆる“なんちゃって”という感覚でしかありませんでした。

──その舞台に立てたこと自体がすごいと思いますが……。

いや、過大評価はできなかったですね。自分は地域リーグのレベルくらいまでしかいけていなかったと思います。Fリーグにいたからこそわかるのですが、週5で練習していますから、プレー強度を高く保つことができていたということだと思います。

上位カテゴリーであるFリーグと、地域リーグ、都道府県リーグとの間で、最初に違いが生まれるのは練習強度。シンプルに速く動ける、長く走れるといったアジリティや身体能力など、アスリートの基礎となる部分がなによりも大事だと痛感しましたね。

フットクラウンを、日本一のブランドに 

──あらゆることに本気で取り組まれて、突き進んできた牟田口さんの話を聞いていると、変な言い方になってしまいますが、この人はどこまでいってしまうんだろうって。

どうなんでしょう(笑)。ただヘラヘラしているようにも見られるんですけど、常に生きるか、死ぬかですよね。一つの事業が失敗するだけでつぶれてしまうような会社の規模感ですから、喉元にはいつもナイフを突きつけられているような気持ちで生きています。

──軸には常にフットクラウンが?

そのこだわりはないかもしれません。フットクラウンは大事ですし、どんどん価値を高めていきたいと思っています。でも、固執しているわけではないというか。

経営者の視点だと、フットクラウンの価値が高まり、売却益が何億にもなるというのであれば、それこそ売却する考えすらあります。新しいことを動かしていけますからね。

──フットクラウンのその先も描いている?

お金が入った時に何がしたいかとかはまだ見通しがついているわけではありません。どちらかと言えば、やりたいことは勝手にその時に見えてくるかなとも思っています。

例えば、今はタイでもユニフォームを作っていて、本田圭佑さんがプロデュースしている「ソルティーロ」の現地スクール『SOLTILO FAMILIA SOCCER SCHOOL THAILAND』では、フットクラウンのユニフォームを使ってもらっています。

そうした意味でも世界との距離は、僕のなかでは近い。世界に向けた何かをしていきたいとは思っています。「日本」というものをもっと世界に広めることをしていきたいですし、日本がより良くなることをしていきたいという考えは根底にありますね。

──だからこそ、まず今はフットクラウンをどこまで広げられるか。

それはもう、本当に。やっぱり、フットクラウンを「かっこいいね」「好きだ」と言ってくれるようなファンを増やしていきたいと思っています。ブランド価値を高めることで今まで知らなかった人たちにフットクラウンが届いてほしいですし、つながりを増やせたらと思います。その結果、フットサル業界がもっと注目されたら最高ですね。

──フットクラウンの野望は?

レアル・マドリードやバルセロナといった世界のトップを走るクラブがフットクラウンのユニフォームを着ることですね。ただこの先、自分が費やせる時間を考えたら、それは現実的だとは言えません。まずは、日本一のユニフォームメーカーを目指していきます。

フットクラウンも、フットサルヒーローズも、誰もやってこなかったところを開拓したい。だから、これからも自分は、いろんな活動を通して、いろんな掛け合わせを考えていくと思います。ヒーローである選手と共に、僕はアーティストとしても頑張りますよ(笑)。

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