宮脇花綸・フェンシング日本代表「肉を切らせて骨を断つ」_CROSS DOCUMENTARYテキスト版

2024年パリオリンピック、フェンシング女子団体3位決定戦。

日本はカナダとの手に汗握る接戦を制し、日本フェンシング女子史上初のメダル獲得を成し遂げた。

世界レベルで見れば小柄な彼女たちが、この日はとてつもなく大きく見えた。

10カ月後の現在、国内のトップアスリートたちが集うナショナルトレーニングセンターに、メダル獲得の立て役者・宮脇花綸の姿を見つける。

3年後のロサンゼルスオリンピックを視野に、流れる汗もそのままに剣を振るう。

「ロス(ロサンゼルスオリンピック)までに足りていないところを補いたいんです。少なくとも1年半前までに。この年齢になるとグンッ! とは伸びないですもん」

慢心の欠片もない28歳。そこには、過去2度に亘る五輪代表落選の苦い経験が起因している。

「オリンピック選手になれないなら辞めよう、引退しようと思いました」

そんなどん底からの復活劇が、宮脇を強くした。

4月。宮脇は所属する三菱電機の入社式で、人事部門の社員として忙しく立ち回っていた。

これではフェンシングに集中できないのではと思われるかもしれない。だが、遠征や用具にかかる費用がすべて自己負担だった無所属時代に比べれば、雲泥の差だ。

「資金の面で不安を感じることなく競技活動ができるので、ありがたいです」

[剣業一致]という言葉がある。剣(フェンシング)の精神や修練を仕事に生かし、仕事で得た人間関係や知識が剣に生きる、という意味だが、宮脇はアスリート社員として所属してからの2年間、この[剣業一致]で成長を遂げたといっても過言ではないだろう。

働く彼女の姿は、どこか凛としていた。

[業]の時間を経て、宮脇はナショナルトレーニングセンターで[剣]の時間を過ごす。

「今日は実戦練習です。チームメイトと装備をつけて試合をします」

およそ100人のトップ剣士が集う中、彼女の強さを探ってみる。

日本代表チームに初招集されてから11年。第一線で戦い続ける宮脇を、日本代表チームの松岡慧コーチは、特にその心理面で高く評価している。

「相手選手の分析に長けていて、心理的なかけ引きが非常にうまい選手です」

心理戦においては、宮脇は世界でもトップクラスだという。実戦練習の最中も、それは随所に垣間見えた。例えば……。

あえて自分の有効面(剣先を当てられればポイントを獲られる場所)にスキを作り、相手の攻撃を誘う。思惑どおり相手が突いてくると、その剣を払い、返す刀で一突き! 

今度は胸から上の有効面にスキを作り、相手に仕掛けさせた次の瞬間……、かがみ込んでの突き!

「相手にカウンターの突きをわざと打たせて、さらにそこに(自分の)カウンターを合わせて突きにいきます。自分が先に突かれることも覚悟してますね」

肉を切らせて骨を断つ。重圧が圧しかかる国際大会でも、宮脇はそんな冷静な覚悟を見せつけて、勝利をもぎ取ってきたのだ。

宮脇がフェンシングを始めたのは5歳のとき。技を磨けば、自分より体の大きな男子にも勝てる――その痛快さに魅了されたという。

そこから順調に、全国レベルにまで頭角を現すも……。

「長く続ける気はありませんでした。なぜか……」

確たる目標を持たないまま、ただフェンシングを楽しんでいたことが原因だったのかもしれない。そんなときに少女が出会ったのが、2008年北京オリンピックで、日本フェンシング史上初のメダリスト(銀)に輝いた太田雄貴だった。

「オリンピックでメダルを獲得するためのお話でした」

太田は宮脇を始めとするジュニア剣士たちに、2016年のリオオリンピックや、2020年の東京オリンピック(当時は招致活動中)でメダルを取ることをゴールとしたロードマップのような設計図を書かせ、それを自ら添削してくれたという。

「フェンシングなら(自分が)世界一になれるかもしれないと思わせてくれたことで、オリンピックというものを真剣に目指す覚悟ができた気がします」

リオオリンピックを目指すことを決意した宮脇。明確な目標は、彼女をさらに強くする。

日本代表チームに初招集されるなど、その活躍は次第に周囲の期待を集めていく。

そんな中、オリンピック出場切符を懸けた2015年のアジア大会、宮脇は意気揚々とその一戦に臨む。

だが、延長にもつれた激戦の末に敗北。初めての挫折に打ちひしがれた……。

再び目標を見失いかけた宮脇。そんな彼女に救いの手を差し伸べたのは、日本代表チームのヘッドコーチに就任したフランク・ボアダンだった。

「フランクは『日本人には技術はあるが、怖くはない』っていったんです。そこから変えないといけないって」

敵を圧倒する闘争心。宮脇はそれを体現する技を授かる。

「捨て身で走っていく攻撃でした」

通常の[突き]は、構えの後ろ脚で地面を蹴って繰り出すが、それは相手に向かい走って[突き]を繰り出す。フランス語で[矢]を意味する、フレッシュという技だ。

「(外国選手など)身長の高い相手でも、間合いの距離を作って攻撃できます」

ただし、1つ間違えばカウンター攻撃をもらうリスクも高く、今、この技を武器にする日本人選手はほとんどいない。まさに捨て身の大技なのだ。

それでも宮脇は闘争心を前面に押し出し、フレッシュを連発。再び世界での勝利を積み上げていった。

世界の第一線で戦いながら、進化を続けて行く宮脇。だが、そんな彼女もオリンピックを意識すると、思うように力が出せない。

決意の下で臨んだ東京オリンピック代表選考レースで低迷し、またも落選……。

「オリンピックのプレッシャーで自分の力が発揮できない。自分自身の精神的な脆さがつらかったです。もう一生オリンピック選手になれないなら、フェンシングを辞めようって」

引退……。それを思い留まらせてくれたのは、チームメイトの存在だった。

「(選考に落ちた)私たちが腐っていては、(代表)選手たちがいい結果を出せないなと。落選した私たちが最高の練習相手になることが大事だと気づいたんです」

仲間のためのフェンシングは、独りで戦ってきた宮脇の心を成長させる。

それが件のパリオリンピックでの感涙につながった。

ナショナルトレーニングセンターの一室での、宮脇のランチタイム。

聞けば自炊する彼女の3食のメニューは、ここ数年まったく同じだという。

「いろいろ計算しながら他のメニューを考えるの、面倒じゃないですか」

フェンシングのためなら、その時間すら惜しいということなのだろうか?

宮脇は、パリオリンピック後の新たな目標を聞かせてくれる。

「あの団体戦銅メダルは、仲間に助けられてこそのものだったので、次は個人としてもオリンピックの舞台に戻りたいんです」

団体と個人でダブルメダル獲得。宮脇が、笑顔の奥で燃えていた。

ちなみに、彼女のストイックな食事の件。

「休みの日は好きなモノ食べて楽しんでますし、同じメニューでも飽きずにおいしくいただいてます」

フェンシングワールドカップを3週間後に控えたある日、宮脇は新たな技の引き出しを増やそうとしていた。

腕力で剣先を大きくしならせ、相手の背中を突く[振り込み]。ベースの筋力に劣る女子選手にとっては、非常に難易度の高い技だ。

だが、宮脇は技の習得のために、あらゆる努力を惜しまない。

「私自身が一つの技を極めて戦える選手じゃないんです。相手に合わせて技も変えていくタイプなので、[振り込み]をモノにできれば、その分だけ勝てる相手が増えるんです」

3年後のロサンゼルスオリンピック。その時宮脇は30歳を超えている。それこそ引退を考える年齢だ。だが彼女は、さらなる栄光を求めてやまない。

「頑張ったけどダメでした、では納得できないし、終わらせたくありません。自分ならできると思い続けることが、今の私の原動力になっています」

取材の最後に、ワールドカップ出場のためカナダへ向かう宮脇を空港で見送った(※)。

なんだか恐ろしく身軽なので、そのことをイジると彼女は笑う。

「これでも以前に比べれば増えてますけどね」

28歳の旅慣れたベテラン選手。これも宮脇の強みのひとつだ。

「とにかく、ケガなく元気に今シーズンの2試合を頑張ってきます」

ベテランになればなるほど、時間が無限ではないことを実感する。彼女もまた例外ではない。だからこそ、宮脇花綸は限られた時間を完全燃焼する。その覚悟は万全だ。

※カナダでは個人戦27位という成績だった。