
小川仁士・車椅子ラグビー「高性能パスの意味」_CROSS DOCUMENTARYテキスト版
2024年、パリパラリンピック。
車いすラグビー決勝の舞台で、日本代表チームが躍動した。
車いす同士がぶつかる激しい音。パラ競技の中で唯一タックルを認められ、その激しさから[マーダーボール]とも呼ばれている、車いすラグビー。
大接戦を制したのは日本。前回東京大会の銅メダルの借りを返す勝利だった。
この金メダル獲得の立て役者が、パワー、スピード、そして世界屈指のパスセンスを兼ね備えたキャプテンの小川仁士である。
2024年12月、小川は目前に迫った日本選手権に照準を合わせ、過酷な練習に臨んでいた。
「連覇、それしか考えていません」
所属するクラブチーム[ブリッツ]は、過去9度の優勝を誇る名門。そこに油断はない。
「パリで金メダルをとりましたけど、車いすラグビーの認知度はまだまだなので、連覇すれば注目も集まって、競技全体が盛り上がっていくことを期待しています」
その日、練習に向かう小川の車に同乗すると、障がい者用の特別仕様に目がいく。
事故による障がいで、四肢が自由に動かせない小川だが、運転は大好きだ。
「この車は5年前からですけど、もう15万キロ走ってます」
練習施設のパラアリーナに到着すると、小川は車いすへの乗り換えから荷物の積み降ろし、運搬まで、すべて一人で行う。
「(障がいがあっても)できることは自分でやるのが当たり前です」
一人で着替えを済まし、練習フロアに姿を見せる小川。通称[ラグ車]と呼ばれる、競技専用の車いすに乗っている。
「僕は頸髄損傷で、四肢麻痺になります。手を伸ばす筋肉や握力は0です」
4人制競技の車いすラグビーは、選手それぞれの障がいの程度により3.5~0.5まで、0.5ポイント刻みの7段階にクラス分けされ、その合計が8ポイント以下になるようにチームを編成する。
小川の障がいは、2番目に重い1ポイント。障がいが重い選手は基本的にディフェンスのポジションを担う。車いすも、大きなバンパーがつくディフェンス型を使用している。
逆に、障がいが軽い選手はオフェンスポジションを担い、車いすも軽くて小回りが利くオフェンス型を使うのだ。
そして、もう一つ特徴的なのが男女混合の競技であること。障がいポイントによるチーム編成が、それを可能にしているのだ。
練習が始まると、タックルで車いすがぶつかり合う音が響く。そのパワーと試合展開のスピードが、この競技の醍醐味でもある。
「(タックルの衝撃は)例えるなら交通事故級だと思いますね、僕は四肢の感覚がほとんどないんですけど、それでも分かるくらいの衝撃です」
ハードな競技には、ハードな練習がつきもの。小川は車いすを全力で漕ぎ続け、肉体を追い込んでいく。
「これはもう逃げ出したくなりますよ」
かつてモトクロス競技のレーサーだった小川。レース中の事故で障がいを負ったのは、18歳のときだった。
「絶望感……。そこまで落ち込むことは少なかったんですけど、心と体が離れていると感じる瞬間があって、円形脱毛症になったときは、想像よりも遥かにストレスがかかっているんだと思いましたね」
四肢麻痺となってからも前を向くことができたのは、恋人の美衣結さんの存在が大きかった。彼女は今も、妻として小川を支えている。5年前には愛娘も授かり、夫婦は守るものがあることの幸せをかみしめている。
そんな小川が、リハビリ中に出会ったのが車いすラグビー。20歳のころだった。
「車いすラグビーの激しさに一目惚れしました。タックルが一番の魅力ですかね。しかも男女混合で、障がいの差がある中で、お互いの能力を認め合っていく。その連携も魅力ですね」
重度の障がいがあっても、打ち込めることがある。その喜びは、血のにじむような努力も可能にしてくれた。
車いすラグビーに身を投じて3年後、小川は23歳で日本代表に初選出。以来、日の丸を背負った7年の間に、東京パラリンピック銅メダル、そして昨年のパリパラリンピックで金メダルを獲得してきたのである。
「(世界で戦ってみて)観客の熱狂度が、日本とは比較にならない。ちゃんとスポーツとして見てくれるので、応援の迫力や競技に対する熱量が本当に違う」
その熱狂を日本でも……、それを思わない日はない。
とある休日、小川が家族を伴い愛車を駆る。
到着したのは埼玉の釣り堀。家族サービスを兼ねて、趣味の釣りにやってきたのだ。
「自分の趣味と、家族と過ごす時間。一石二鳥です」
釣り糸を垂れている間に、妻・美衣結さんのことを聞いてみた。
「素直にありがたいです。結婚して8年、付き合ってからは14年。付き合って1年くらいでケガをしているので、一番楽しいはずの時期がどん底になってしまって。それでも一緒にいてくれたんですよね。感謝しかありませんよ」
当の美衣結さんは『あまり深く考えないタイプなので』と笑い飛ばす。しかも、意外とスパルタ奥さんだった。
「ショックはありましたけど、一緒に過ごすうちに、それが当たり前になった感じで。ま、そんなことよりですね、(同じ境遇の人に)甘やかさないほうがいいですよっていいたい」
何かを障がいが故にできないと決めてかかって、誰かに頼る姿は見ていてつらいし、本人の負担もかえって大きいという。
「まず自分でやってみて、できるものは続けてやってもらったほうがいい」
そういいながら、小川の釣り針に餌をつけてあげていた。
日本選手権を目前にしたある日、連覇を目指すブリッツは大会前最後の練習に臨む。
チームにはキャプテンの小川を含め、池崎大輔、島川慎一、長谷川勇基、4人のパリパラリンピック代表メンバーが在籍している。
「パリで戦ったメンバー12人中、4人がいるので、勝たなきゃいけないプレッシャーというのはありますね」
チーム練習は、その4人が中心となって細かな連携を確認していく。特に、小川はリーダーシップを発揮し、プレーの一つひとつに目を光らせていた。
休憩中、代表メンバーの一人、島川に話を聞く。
「(小川とは)10年一緒にプレーしていますけど……。ふざけるときはふざけるんですけど、根はまじめですね。いろんなことを考えてくれるキャプテンなので、すごく頼れる存在です」
同じく代表メンバーの一人、池崎も口をそろえる。
「チームとして、しっかり自分がまとめていくという姿勢が見えるんですよね。若いけど、目上の人間にも配慮しながら、雰囲気作り、リーダーシップをとってくれます」
練習後、小川は一人、ボールを持って壁際に向かう。そして的に向かって、ひたすらボールを投げ続ける。世界を制した小川の高性能パスは、この練習の積み重ねだという。
「僕にできることだから、少しでも精度を高めて続けていきたいんです」
ふと、美衣結さんの顔が浮かんだ。
2024年12月20日。車いすラグビー日本選手権が開幕した。
連覇を目指すブリッツは前評判どおり、初戦から相手チームを圧倒していく。
キャプテン小川のパスがさえ渡り、攻守にわたってチームを盛り上げる。
その勢いは大会3日間、衰えることを知らなかった。
ブリッツは負け知らずの5連勝で、悲願の2連覇を達成する。
破願して喜びを分かち合うブリッツの面々。小川は大会MVPに選出された。
「今までの努力がすべて報われた年(2024年)になりました。パラリンピック金、日本選手権連覇、そしてMVP。本当に濃い1年だったと思います」
もちろん、小川の歩みがこれで終わるわけではない。2026年の世界選手権優勝、そして2028年のロサンゼルスパラリンピックで2大会連続金メダル。彼の夢は広がるばかりだ。
「結果を出し続けて、普及活動もどんどんやって、車いすラグビーをメジャーなスポーツにしていきたいです」
夢と希望をボールに乗せて、一人でも多くの人に届けたい。
だから小川は高性能パスを磨き続ける。
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