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アーチェリー女子パリオリンピック代表・野田紗月「規格外の44ポンド」_CROSS DOCUMENTARYテキスト版
弓を引き絞る彼女が狙いを定めるのは、70メートル先の10点ゾーン。それは直径12センチに過ぎない。
立て続けに3射。すべて的のど真ん中を射抜いた。まさに神業だ。
アーチェリー女子パリオリンピック代表・野田紗月。23歳。
昨年8月、ドイツのベルリンで開催された世界選手権で、日本勢初の銅メダルを獲得し、パリへの切符を手に入れた野田。
そんな彼女には、初のオリンピックを前に克服すべき課題がある。不調時に顕著になる、弓を構えたときのわずか数ミリの体のブレ……。
再現性のスポーツであるアーチェリーでは、その数ミリが致命的なミスとなる。
風雨や気温、湿度の変化によっても、矢の飛びに影響を及ぼす繊細な競技の中で、野田の調整は急を要していた。
パリオリンピックまで数カ月。果たして間に合うのか? 課題克服に臨む、彼女の日々に密着した。
その日、野田は母校・近畿大学の洋弓(アーチェリー)部練習場に姿を見せた。
「これ、普段使ってる弓です」
野田仕様の弓。張られた弦を弾き絞るには、44ポンド(約20キロ)の負荷がかかる。
新人選手の場合は20ポンド(約9キロ)が目安。野田はその倍以上の負荷で弓を引いていた。
「矢が的に届くまでの速度が速くなって、滞空時間も短いので、風の影響を受けにくくなるんです。当然命中率も上がります」
ちなみに取材スタッフ(男性)が全力で引いてみると、まったく無理だった。
そんな44ポンドの弦を楽々弾き絞る野田。身長170センチの恵まれた体格がこれを可能にしているという。
放たれる矢の速度は、約250キロメートル。一般的な女子選手の平均速度が約200キロメートルというから、ここからも彼女がいかに規格外の存在であるかが分かる。
近畿大学洋弓部監督の山田秀明氏は、野田を評して語る。
「今も昔も、日本のアーチェリー界であれだけの体を持っている女子選手はいません。身長が高く、リーチが長ければ、それだけ有利に働く競技ですから、世界を狙える選手になっていくのではないでしょうか? 面白い存在ですよ」
その横で、野田は44ポンドの弦を弾き絞り、的のど真ん中を射抜き続ける。
そんなアスリートとしての高い評価の裏で同期の仲間たちは、野田をチャーミングな女性だと語る。
「いつもニコニコしていて、ムードメーカーです。この子は笑顔がポイントなんですよ」
それを横で聞いていた野田は、ポーカーフェイスを装いつつ、こっそり照れ笑いを浮かべていた。
野田は中学までは、ソフトテニスの選手として活躍していた。
それが高校入学時の部活動体験で、たまたまアーチェリーに挑戦することになり、運命の歯車が回り始める。的を狙うどころか、弓を引くことさえできなかったからだ。
「すごい負けず嫌いなんです。できないことに燃えるたちで」
すぐにアーチェリー部への入部を決めた。
その後近畿大学に進むと、瞬く間に頭角を現し、全日本選手権2連覇。わずか数年の歴で日本から世界を窺う存在に成長していた。
話を本題に戻そう。野田はこの日も、オリンピックまでの課題である体のブレの矯正に臨んでいた。
コーチのキム・チョンテ氏は野田の課題について、
「矢を射る寸前に体がブレ、弓が斜めになったりフラフラするんです。この癖が出ると狙いに大きな狂いが生じてしまいます」
好調時のフォームと、癖が出たときのフォームを比べると、見た目ではその違いを判じることは出来ない。だがスローモーションにしてみると、癖が出たフォームでは矢を射る寸前、弓の先が体の軸と共に微かに左に傾いた。
数字にすれば、数ミリに過ぎない。しかし、これが矢の軌道に大きな影響を及ぼしてしまうのだ。
その癖が露わになったのは、昨年、中国で開催されたアジア大会でのこと。
準々決勝、連続で10点をマークした後、野田の3射目……。矢を射る寸前に体と弓がブレ、わずか1点に留まる痛恨のミス。これが敗因となってしまった。
「ほんのわずかなズレが大きなミスに繋がってしまいました。選手なら誰でも経験のあることなんですが……。世界で戦うには、それが致命的になるんです」
課題克服のために、野田はフォームのビデオチェックの他、体幹のインナーマッスルのトレーニングにも余念がない。
地味で効果の実感が薄いトレーニングだが、野田はこれを黙々と長時間こなす。
食事中、キムコーチにトマト嫌いを指摘され、『なんでも食べないとダメ!食べることもトレーニング!』としかられている彼女と、同一人物とは俄に信じがたい。
「インナーマッスルが鍛えられれば、体のブレは抑えられるんです。勝てるなら、何でもします。負けるのは嫌です」
とある日、野田の姿をアーチェリーメーカー主催のファンイベントに見る。快くサインに応じ、ファンと写真に納まる。アーチェリー界での彼女の人気は絶大だ。
始終笑顔を絶やさない野田。同期の仲間たちの評価を思い出す。
いつもニコニコしているムードメーカー。それは間違いなく、アーチェリーの発展と普及に寄与している。だからこそ、野田紗月は強くなければならない。
パリオリンピックを控え、野田は調整を兼ねた国内大会に出場する。全日本室内アーチェリー選手権。
屋外競技が70キロメートルの距離を取るのに対し、室内競技は18メートル。その分、的も小さくなる。
10点ソーンは直径わずか4センチ。屋外の三分の一しかない。
「10点が小さくなる分、精度を上げないとダメですし、それは屋外の70メートルにも生かされるはずです。テンポよく、同じ精度で矢を射られるかがポイントになります」
その室内選手権を前に、野田は大事なルーティーンを行う。
それは行きつけのサロンで、彼女定番の刈り上げヘアを整えること。
「刈り上げにしたら勝つようになって。大きな試合の前は必ずやります。運気の上がるヘアです」
そういうと、チャームポイントの笑顔が弾けた。
これで準備万端。野田はパリオリンピック前哨戦に臨む。
長崎県立総合体育館。野田はパリオリンピック前の最後の国内大会、全日本室内アーチェリー選手権に挑んだ。
18メートル先に、縦に3つ並んだ的。そこに1本ずつ矢を射る1対1のマッチプレー方式。
1射のミスが、勝敗の行方を左右する。
パリオリンピックに向けて、体と弓のブレを矯正してきた野田は、他を寄せつけない強さで勝ち上がっていく。
だが、準々決勝。精密機械のように矢を射続けてきた野田に異変が! 10点ゾーンを大きく外してしまった。本人さえ気づかぬ体のブレがあったようだ。
リードを許した野田。それでも必至の追い上げで同点に漕ぎつけ、ラストショットを迎える。得点の高い方が勝者だ。
もうミスは許されない………。野田の高速の矢は、ど真ん中! 10点を射抜く。
ところが、相手選手もまた、ど真ん中。勝敗は審判の判定に委ねられた。
結果、より中心に近いと判定された相手選手に軍配が上がる。
「差は1ミリもありませんでした。(序盤の体のブレによるミスは)練習でできていたことが、試合でできなかったのが悔しいです。すぐに改善したいです」
後日、すでに猛練習を再開している野田を訪ねた。
パリオリンピックは4カ月後。まだ進化のチャンスはある。
「初めてのオリンピックを嫌な思い出にはしたくありません。結果はどうあれ、今後につながるような、何かを得られる場所にしたいんです。2028年のロサンゼルスオリンピックも視野に入ってます」
オリンピックの大舞台で輝くために。
今日も野田紗月は、44ポンドの強弓を引き絞る。
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