木崎伸也は、いかにしてスポーツライターになったのか? 本田圭佑を追い続けた男
「ドイツにいけば絶対に仕事がある」という助言
その企画の後、金子さんがキャンピングカーでパリから日本まで行きたいと言い出したんです。1998年のW杯開催地から、2002年の開催地まで行こうと。その準備を頼まれました。
素人の学生でコーディネーターもやったことがないのに。レンタルキャンピングカーを探してパリで借りようとしたり、ルートを僕が決めて報道番組に「こういう企画するから番組化して、お金をちょっと出してくれませんか?」と営業にいったり。結果的に協賛も貰えました。
その中でキャンピングカーの旅がスタートして、約1カ月ヨーロッパをぐるぐる回って、ロシアへ行って、金子さんは最後、シベリア鉄道で帰りました。キャンピングカーで東京まで行くのは危険だという結論になったんです。もう一人、僕と塾生のトラック運転手は2人でキャンピングカーをモスクワからパリに返しにいきました。
そして、最後にホテルで食事会をやろうということで部屋の中にコンロ持ち込んでそばを茹でて食べていたときに、金子さんに『今回お前には世話になったから、願い事を叶えてやる』と言われて。そのときに、ドイツに行けと言われたんです。ドイツに行けばW杯が4年後にあるから絶対仕事があるはずだと。
『語学学校代は全部払ってやるから行け』と言われ、ヨーロッパ行きが決まりました。2002年の4月です。
ドイツに2003年から2009年まで居住。フランクフルトの練習場にて。
ただ、最初に行ったのはオランダでした。ドイツ行きの準備をしていたら金子さんから電話がかかってきて『スポニチからオランダで通信員を探しているそうだから、やれ』と言われて。オランダはドイツから近いから、と。地図を見たら全然通えなかったんですけど(笑)
小野伸二選手の担当としてロッテルダムに行きました。ですから、最初に取材をしたのは小野伸二選手です。2002年7月にロッテルダムに行ったのですが、2003年1月に高原直泰選手がハンブルクに移籍をしたこともあり、スポニチから『ドイツへいけますか』と聞かれました。もともとドイツを目指していたこともあったので、「是非行かせてください」となって当初の目的地のドイツへ行き着いたという訳です。
ですから、ライターになったきっかけと言われれば、金子さんにドイツに行けば仕事があると言われて、行ったからですね。ドイツに当時、ライターは1人もいなかったんです。日本人はみんな、ブンデスリーガに興味がなかった。そんな競争相手がいない状態で、高原選手が来てくれて日本人選手を取材する仕事もあり、(2006年の)W杯の仕事ものちにあると考えたら、ラッキーだったなと。というか金子さんの先見の明がハマったなと。
だから、“ライターになりたい”と若い人から相談を受けた際には『今すぐ外国へ行けば、ライターになれるよ』と言っています。
Follow @ssn_supersports