
輝きを放つアスリートたちは、どのようにして頂点を極め、そのときに何を感じ、そして何を手にしたのか—— 。
自身もプロゴルファーとして活躍している深堀圭一郎が、スポーツ界の元トップ選手や現役のトップ選手たちをゲストに招いて、アスリートたちの深層に迫る、BS無料放送『クロスオーバー』連動企画のテキスト版。
そこから垣間見えてくる、ゴルフにも通じるスポーツの神髄とは? 第12目のゲストは清水宏保さん。
※敬称略
スパルタ指導の父から学んだ反骨精神…大学時代に技術を変えてスケールアップ!
深堀:オリンピックで2大会連続でメダルを獲得されたスピードスケート界のレジェンド、清水宏保さんにお話を伺います。清水さんのお父さんはすごく厳しい方だったと聞きましたが。
清水:めちゃくちゃスパルタでした。小学2年のときに父が末期ガンを宣告されてから、より厳しさが増しました。結果的には、そこから9年間生きてくれましたが。
深堀:練習のスタイルは、どのような形だったのでしょうか。
清水:朝5時ごろ起きてランニングかローラースケートに行っていました。午後はスピードスケートのトレーニング。冬はマイナス20度になるため、父が練習場所まで車で送迎してくれるのですが、帰りは途中で下ろされます。その後は、家までインターバル走で雪道を走らされていました。「全力で走って、ゆっくり走る」というのを繰り返す感じです。
深堀:インターバル走は、心肺機能が鍛えられますよね。お父さんは、トレーニングについても勉強されていたんですね。
清水:本を読んだり、高校生や大学生が合宿などに来たときに監督さんやコーチが「何をいっているのか」を近くで聞く。そこで得たトレーニング方法を僕に指導した感じです。
深堀:お父さんから学び得たことは、何だったんでしょうか。
清水:いろいろなものに対して「工夫すること」だと思います。僕は小柄で、体格に恵まれていたわけではありません。そのなかで、工夫しながら「反骨精神を持ってやっていこう」という気持ちの強さを植え付けられました。
深堀:清水さんは高校2年生の時にはインターハイで1000mと1500mの2種目で優勝されていますよね。お父さんも喜ばれたでしょう。
清水:実は、インターハイで優勝したときには、父は病院から出られない状況でした。そのため、僕のレースも病院で知人が録画した映像を見ていたんです。亡くなる数週間前のことで、後に母から「涙を流しながら喜んでいた」という話も聞きました。北海道に戻り病院へ行ったときには、父は骨と皮のような状態で翌日に他界したんです。
深堀:最後に優勝の姿を見せてあげられたのが何よりですね。お父さんが亡くなられた後は、どうでしたか。
清水:経済的な理由もあって、スケートを続けるか悩みました。大学進学にもお金が必要ですから。一時はスケートを辞めて「競輪選手に」と考えていましたね。ところが母に相談すると大反対。僕に「スケートを続けさせて大学に行かせること」が、父の遺言みたいになっていたからです。最終的には、スケートを続けましたが、母が必死に働いて遠征費や学費を稼いでくれたおかげですね。兄弟たちも支援してくれましたし。
深堀:清水さんは、高校生のころにアルベールビル五輪の代表選考レースにも臨まれていますよね。当時から代表の道が見えていたのでしょうか。
清水:高校1年のときに、指導者に「目標を立てなさい」といわれたんです。それで「1年生でレギュラー、2年生でインターハイのチャンピオン、3年生でオリンピックに出場」と書きました。実際、1、2年生の目標はクリア。そして、全日本の選手が参加する大会にも出場して16位に。オリンピックの代表には、4位以内に入る必要がありましたが「来年1年間練習すれば可能性はある」と感じました。そこから、与えられたメニューをこなすだけではなく、積極的にトレーニングに打ち込むようになったんです。結果的には、出場は叶いませんでしたが。
深堀:その後はオリンピックが現実味を増した感じでしょうか。清水日本大学に進学してからですね。スケートの技術を変える指導も受けました。ただし、技術を変えると一時的にタイムが落ちる。そこから3か月ぐらいはスランプに陥りました。しかし「やろうとしていること」に挑戦し続けた結果、タイムが上がり始めたんです。最初は「何をしているか」分からなかったんですが、1年ぐらい続けると体の中で感覚がつかめるというか。
深堀:やはり「諦めずに努力し続ける人」が、超一流になるのだと思います。形だけ変えることはすぐにできますが、完全に自分の動きとして習得するのは簡単ではありません。ゴルフでも、例えばトップの位置を少し変えるだけで相当な練習量と時間が必要ですから。
空気に呑まれ不本意に終わったリレハンメル五輪…その後はトレーニングで自信を構築!
深堀:清水さんが世界デビューしてからについて、お話を伺いたいと思います。海外は環境が違いますし、ライバルも多かったと思うのですが。
清水:まず、国内と大きく違うのが水でした。リンクの氷が変わってしまうんです。これが滑りに影響しますし、時差なども克服しなければいけません。しかも、僕が日本代表として初めて海外の試合に出場したときは、ライバルの外国人選手の身長が190cm以上とが大きかったんです。向こうにしてみれば、日本代表は「なぜ小学生を連れて来ているんだ」という感じだったと思います(笑)。そして、今と違い昔はスタートの順番が、タイムの速い選手からでした。僕は最終組でしたが、上位選手のタイムを抜いて優勝しちゃって、周囲は相当ビックリしていました。
深堀:外国人選手との体格差を埋めるためのトレーニングなどは行いましたか。
清水:メチャメチャやっていました。「世界で一番トレーニングをしたのではないか」と思います。日本で今流行っている『タバタ式トレーニング』という方法があるんですが、これは高校生のころに僕たちのために開発されたんです。ハードなトレーニングで、当時の日本のスピードスケートの選手を支えていました。ものすごい高強度の負荷で、自転車を20秒間全力で漕ぐんです。その後、10秒間休んで、再度20秒間全力で漕ぐ。これを8回繰り返します。
深堀:その追い込み方はすごい。結果として、1993年のイタリア開催のワールドカップで、初出場ながら優勝。18歳での栄冠でしたが、このときはどうでしたか。
清水:正直、実感が薄かったですね。「あれ、勝っちゃった」みたいな感じです。もちろん、優勝した喜びもあったのですが、オリンピック以外の試合では世界選手権がメインで、それ以外は調整する選手もいましたから。優勝しても「本当の実力は分からない」という気持ちでしたね。
深堀:清水さんは、ワールドカップや世界スプリントなどの活躍により、19歳で1994年開催のリレハンメル五輪代表に選ばれたわけですが、初のオリンピックはどうでした?
清水:4年に一度しか開催されない大会ですから、プレッシャーもありましたし、他の大会とは雰囲気が全然違いましたね。僕は日本チャンピオンを取り、オリンピックに出場しましたが、当時は「出ること」しか考えていなかったんです。そのため、オリンピック会場の空気感に呑まれました。皆が強く見えて、落ち着きを取り戻せなかったんです。
深堀:結果は500m が5位、1000mが19位とメダルには届きませんでした。大会が終わった後、ご自身での評価はどうでしたか。
清水:「情けない気持ち」でいっぱいでしたね。メダルを取る実力があったのに結果を残せなかったので。「全力で滑れば勝てる」と思っていましたが空回りしたんです。さらに、ライバルだったアメリカの選手が1000mで世界記録で優勝した姿を見て、4年後のオリンピックで戦うための「心や身体の準備」に強く向き合うようになりました。
深堀:日本人では、堀井学選手がいい刺激になりましたか。
清水:先輩で同部屋、さらにライバルだった方が銅メダルを獲得したので「悔しい気持ち」はありましたね。
深堀:その想いを晴らすのは4年後ですが、どんなトレーニングをされたのでしょう。
清水:1年ごとに目標設定を行いました。そしてトライ&エラーで、トレーニングメニューや試合への挑み方など、さまざまな面で挑戦しましたね。いろいろなことを試して「自分に合う方法」を取り入れました。
深堀:清水さんは、自分を限界まで追い込む練習を現役時代ずっと続けられました。やはり、その効果を強く感じていたのでしょうか?
清水:心が弱かったんです。だからこそ、ものすごい量のトレーニングを行い「しっかり練習してきた」という自信を持ちたかった。ここまでやってダメなら仕方がないと。
深堀:アスリートが強くなれるのは、「怖さ」や「弱さ」を知っているからだと思います。例えば、震えていても自分らしくプレーできるというか。「ここまでやった」という自信は持っていないと力が発揮できないと感じますね。
清水:スタート前は本当に緊張してそうなります。構えたときに、足がガクガクするんです。それを何度も経験することで「落ち着ける自分」を作り上げられると思いますね。
深堀:弱さを受け入れ、努力と経験で克服する。アスリートに欠かせないことだと思います。
リンクの真ん中で大の字に寝て自分を取り戻し、長野五輪で念願の金メダルを獲得!
深堀:1998年に開催の長野五輪に出場されたときのことについて、伺いたいと思います。当時、清水さんが500mで金メダルに輝いたシーンをテレビで拝見し「躍動感がすごい!」と感じました。ご自身は「勝てる」という気持ちはあったのでしょうか?
清水:長野五輪のときは「勝てる」と思っていましたね。「しっかり準備してきた」という自信もありましたから。大会では2日間滑ったのですが、1日目は「全力でいくとミスが出る」と考えて8割の力に抑えました。それで2~3番目にいれば、翌日は大丈夫だろうと。ところが、初日に1位。これでトップなら「いける!」と思い、翌日は「全力に近い状態で滑ろう」と決めました。しかし、朝起きたらもすごく体が重くて。前日まで緊張して全然寝られなかった反動で、逆に眠り過ぎてしまったんです。
会場に入っても体が動かずマズイと思っていたら、海外の選手が転倒して競技が20分程遅れたんですね。そのときにコーチから「スケート靴を脱いで休もう」といわれ、リンクの真ん中で大の字に寝ました。これで力が抜けて体が軽くなり「今までの自分」に戻れたんです。スタートラインに立つと、会場からの大声援も響いてきて「絶対にいける」と確信しました。考えていたのは「スタートの一歩」だけです。これが上手くいけば大丈夫だと。
深堀:ウイニングランや金メダルをかけられたときはどうでしたか?
清水:達成感の塊といいますか「やり切った」という感じでした。それまで相当な重圧がありましから、この時間を「存分に味わいたい」と思いましたね。そして、もし父が生きていたら「どんな言葉をかけてくれるのだろう」とも考えました。表彰式前、バックヤードで、すでに涙がポロポロ溢れてきて。アレ、もう泣いちゃっている、みたいな。
深堀:オリンピックで金メダルを取るというのは、「努力」というレベルを超越している世界だと感じますね。長野五輪の後、次のソルトレイクシティ五輪にも出場されましたが、気持ちの切り替えはどうでした?
清水:実は長野五輪の直前ぐらいから、靴のカカト部分が離れる構造のスラップスケートが使われるようになり、道具が劇的に進化したんです。タイムでいえば、1週で1秒ぐらい短縮できるようになった。それもあって、僕は金メダルを取った数週間後に世界記録も出せたんです。このとき「まだタイムを縮められる」と感じて「もう一度金メダルを取りたい」という新しい目標ができました。そこからは、オリンピック連覇を目指して、誰も到達したことがないタイム領域に入るための技術を追求しましたね。そして、世の中の人に「もっと自分のことを知ってもらいたい」という気持ちになりました。
深堀:結果として、02年に開催されたソルトレイクシティ五輪は500mで銀メダルだったわけですが、ご自身の中では長野五輪の金メダルより価値を見出していると聞きました。それには、何か理由があるのでしょうか。
清水:実はソルトレイクシティ五輪が開催される3カ月ぐらい前に交通事故に遭い、腰がまともに動かなくなったんです。最終的には、痛み止めの注射を打って競技に挑みました。その状況で、銀メダルを取れたのは自分の中で評価できますし、うれしかったですね。心が折れそうなときもあったので「よく持ちこたえた」と思います。
深堀:清水さんは36歳まで現役を続けられましたが、引退は怪我の影響もありましたか?
清水:腰の状態がよくならず、練習も思うようにできなくなりました。手術もしましたが完治せず、今も後遺症が残っています。最終的に引退を決めたのは、競技者としての限界や心の限界を感じたから。そして、引退後のセカンドキャリアも考え始めましたね。
深堀:13年に整骨や鍼灸の治療院を開かれていますが、きっかけは何だったのでしょう。
清水:引退後、大学院で医療経営学を学びましたが、そのときに「アスリートがリハビリを支える」という発想になったんです。実際に、自分も怪我をしてリハビリの経験がありますから。例えば、怪我が原因で競技を続けられなくなった選手が医療を支える、そんな環境を作っていければ「アスリートの大きなセカンドキャリアの実現と社会貢献につながる」と考えました。
深堀:清水さんの「次の世界を作り上げていく行動力」は、本当に素晴らしいと思います。今回は貴重なお話をありがとうございました。
▼清水宏保/しみず・ひろやす
1974年2月27日、北海道出身。1998年の長野五輪では500mで金メダル、1,000mで銅メダルに輝く。02年ソルトレイクシティ五輪の500mで銀メダルを獲得。10年、現役引退。
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