プロ野球選手の隣から。フリーアナウンサー・淡輪ゆきが伝えるメッセージ【PR】
スポーツ界を支えているのは、ファンを始めとした「支える人々」の熱量と言っても過言ではありません。本企画「スポーツを支える人々の“熱意”の裏側 powered by HEAT-X」では、愛するチームや選手を支える人たちのエピソードを発信します。
第2回は、ソチパラリンピックやBリーグ、西武ライオンズなどでリポーターを務め、現在はフリーアナウンサーとして活躍している淡輪ゆきさん。2019年には東北楽天ゴールデンイーグルス・浅村栄斗と結婚し、プロ野球選手を支える妻としても奮闘しています。
ただの“スポーツ好き”だった彼女は、なぜスポーツを仕事にすることを選択し、トップアスリートを支える立場に至ったのか。その経緯と、選手の間近で感じたスポーツの魅力を語っていただきました。
ソチでリポーターとして流した涙
幼少期から体を動かすことが大好きで、3歳からクラシックバレエをやったり、小中学校ではバスケットボールや駅伝、スキーをしたり、とにかく体育の成績だけは良い(笑)という子供でした。
高校では両親の影響でラグビー部のマネージャーだったのですが、この時にかなり部活にのめり込んでしまい、私がスポーツ好きになった原点は間違いなくここです。そして今思えば、スポーツ選手(学生ですが)を支えることにやりがいを感じたのも、あの時からですね。
今のような芸能界のお仕事をするようになったきっかけは、大学生の時にbayfm(千葉のFMラジオ局)で、学生が制作からDJまでを担当するという企画の番組があって、当時インターンをしていた友達にそのオーディションを受けてみないかと言われたんです。
そこから1年間、その番組のDJを務めていたのですが、ある時、のちに所属する事になるプロダクション尾木の社長さんがトークゲストにいらっしゃったんです。普段あまりゲストを迎える番組ではなかったので、とても緊張して、その時のことは正直あまり覚えていないのですが……。そのトークセッションをきっかけに、プロダクション尾木への所属と、bayfmの帯の音楽番組のパーソナリティーに任命していただけたんです。
それからは、大学に通いながら毎週ラジオ局に通う日々でした。たくさんのアーティストの方にお会いして、曲へのこだわりや想いを聞くのが本当に楽しかったのを覚えています。ですが、同時に生放送というやり直しのきかない限られた時間の中で、その魅力を自分の言葉でリスナーに伝える、という難しさも学びました。失敗もたくさん経験して、成長した時期です。
ですが、その時点では芸能界で生きていくとはまったく考えていませんでした。大学3年になって、就活が徐々に始まった頃、ソチパラリンピックの現地リポーターのオーディションの話をいただいたんです。もしソチに行くことになった場合、面接の時期に丸かぶりで、その年の就職は難しくなるタイミングでした。
最初はかなり悩みましたが、「オリンピック・パラリンピックには、今後一生関われないかもしれないけど、就活はしたくなったらいつでもできる」と思い、就活を全部辞めてオーディションを受けることにしました。
結果、ご縁があって合格することができて、ソチに行くまではまずパラリンピック競技の勉強を一からはじめました。それから練習場に足を運んで、出場選手にインタビューをしたり、とにかく毎日そのことを考えて生活していましたね。
いざ、本番であるソチの舞台へ。様々な競技の選手に密着しましたが、その誰もが人生をかけて試合に臨んでいる姿を目の当たりにして、感銘を受けました。今までもテレビで甲子園を見たり、部活の引退試合を経験はしていましたが、ここまで選手の間近で、しかも世界レベルの熱量を感じたのはもちろん初めてでした。
特に印象に残っているのが、クロスカントリーの新田佳浩選手。新田選手は前回のバンクーバーで、2種目で金メダル。ソチは“最後のパラリンピック”という想いで臨んでおられましたが、地元・ロシア勢の健闘もあって、メダルには届かず。
練習から取材をしていた私は、ソチに懸ける新田選手の想いを知っていたので、レース直後のミックスゾーンのインタビューで顔を見るなり思わず泣いてしまったんです。その時は新田選手も涙を流してくださったのですが、プロデューサーからは「お前が泣くな」とかなり怒られましたね(笑)。(※その後、新田選手は平昌五輪で金メダルと銀メダルを獲得)
今思うと、プロ意識が本当に低かったと、とても恥ずかしく思います。リポーターとしての絶妙な距離感の大事さと難しさを、ソチで勉強させてもらいました。
ソチパラリンピックで私が担当していたのは、24時間の生放送番組。毎日夜2時くらいに寝て、朝5時には取材現場に行く生活でした。体力的にはかなりきつかったと思うのですが、一度もつらいと思うことはありませんでした。それだけやりがいを感じ、何より心から楽しかったんだと思います。
スポーツから得る感動は、必ず人の生きる活力になる。これを実体験として味わえたので、このソチでの経験をきっかけに、一生スポーツのお仕事をしたいと思うようになりました。
アスリートの短い寿命から学ぶべきこと
ただの“スポーツ好き”だった私は、スポーツが自分の人生において欠かせないなものなんだと気がつきました。それと同時に、選手の日々の積み重ねや、試合に向けた想いを多くの人に伝えたい。
そうすれば、視聴者やファンの方がその選手やチームに感情移入して、それまで以上に勝敗が悔しかったり嬉しかったり、スポーツを見るのがもっと楽しくなるし、みんながスポーツからパワーを得て、自分の人生もパワー全開で歩めるように、と。
それからは、車椅子バスケやブラインドサッカーなどのパラスポーツをはじめ、Bリーグやプロ野球中継など、様々な舞台でリポーターを務めるようになりました。Bリーグは創成期ということもあって、まだメディアの取材が少ない時期だったので、囲み取材で代表質問をすることもありました。
今思えば、なかなかできない経験だったなと思います。ソチでの経験を生かして仕事ができましたし、Bリーグ開幕という大きな歴史の一歩に携わることができたのは、すごく大きかったです。
そこからさらにステップアップできたのが、西武ライオンズでの中継リポーターのお仕事でした。長い歴史のあるプロ野球の現場。取材陣の雰囲気、選手との距離感、全てにおいてかなりの重圧を感じたと言いますか、最初の方は怖くて、誰かの質疑応答を聞いているだけで精一杯でしたね(笑)。
そこでも毎日トライアンドエラーを繰り返しながら、少しずつ自分らしいインタビューができるようになっていったのですが、中継中にバンバンネタを入れられるようになったのは、任期の最後の方だったかも。なんにせよ、家族の影響で幼い頃から野球が大好きで、野球中継に携わるというのも、この仕事をする上でのひとつの夢でした。それもあって、あの経験は自信に繋がりましたし、一生の糧になりました。
アスリートは常に勝負の世界にいて、ファンには結果がすべてと言われますが、それは本人たちも分かっているんじゃないかなと思っていて。その中で私たちリポーターに求められるのは、選手たちが勝負に挑むまでの過程を、どれだけ濃く伝えられるか。
アスリートの寿命は決して長くはありませんが、私たちが人生で何度か経験する“大事な勝負”を、短いスパンでたくさん経験しています。私が思うに、そこには我々の人生にも生かせるマインドや考え方、経験、努力が詰まっているんです。
障がい者スポーツの選手は「障がいが先天的か後天的か」「どんな事故を乗り越えてきたか」といったことがフォーカスされがちですが、取材をすればするほど、いちアスリートとしてのすごさに感銘を受けます。新田選手は、片腕でストックを持って雪上を滑っていますが、私たちには到底真似できないことです。そういった競技面でのレベルの高さに、もっとフォーカスを当てていきたいなと。
東京パラリンピックは、それを知ってもらうための格好の場だと思います。ただ、ソチの満員の会場で取材をした時に「日本でも同じように満員になるのか?」という疑問はありました。実際にどうなるのかは蓋を開けてみないと分からないですが、少しでも障がい者スポーツとの距離が縮まるきっかけになってほしいと願っています。
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