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【谷本俊介のこれまで】自信のあるなしではなく、もうやるしかなかった|The Turning Point

UPDATE 2021/05/12

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事務局員として2年半、監督として6年、 テクニカルディレクターとして2年、 立川・府中アスレティックFCに在籍した11年間。数奇な巡り合わせと試行錯誤、谷本俊介の「これまで」に焦点を当てる。

取材・構成=高田宗太郎

一番難しかったのはゲームコントロール

──あらためて、お疲れさまでした。立川・府中に関わってトータル何年になりますか?

2010年8月に入社したので、約11年ですね。アスレに入った最初のシーズンは2010-2011シーズンで、当時のアスレは中村恭平さんが監督をしていましたね。

──入社というのは?

実はアスレに入社した動機としては、指導者や監督をやりたいと意気込んで入ったわけではありませんでした。ただ単純にフットボールに関わる仕事がしたいという思いで「事務局員としてフロントで働かせてください」と恭平さんに相談しました。指導者ライセンスを所持していましたし、指導者の仕事に興味が全くなかったわけではありませんが、指導者をやるためにアスレで働くというスタンスではありませんでした。

──そうだったんですね。事務局員としては何年間?

入社から3年間は、指導者ではなく事務局員としてクラブ運営の仕事を担当していました。2013年にトップチームの監督になるまでは、クラブ内の現場で一度もフットサルの指導をしたことはありません。実は2011年にサテライトチームの監督として登録されたことはありましたが、当時トップチームの選手だった村山竜三さん(現バサジイ大分)がサテライトの指導をするにあたって、誰かを代理で登録する必要があったので、あくまでも形式的な肩書きで、実際に監督をしたと言えるものではありませでした。

──当時、発表を見たこちら側としても、谷本さんの監督就任は意外でした。2013-2014シーズンからで、伊藤雅範監督の後任でしたね。

そうですね。2010-2011シーズン限りで現役を引退した伊藤さんが、翌シーズンから監督になり、クラブとしては長く伊藤さんに監督を任せるつもりでした。ただ、2012-2013シーズンが終わったタイミングで突然、伊藤さんから退任の申し出がGMの恭平さんにあり、そこから急遽、監督を探すことになりました。恭平さんの監督の再登板はない、候補の4、5人にオファーを出したものの折り合いがつかない、という状況で、最終的にクラブ内部から監督を任命することになりました。向き不向きはさておき「ライセンスを持っているのは誰だ」と。該当者3人の中から最終的に多数決で自分に決まりました

──当時のフットサル界は、言い方は悪いですが、場当たり人事やお飾り監督が少なからず……。府中の事務局員だった男は、どう思ったんですか。

監督になれてうれしいとか、そういう喜びの感情が湧いてくるというよりかは、もう、やるしかないな、と。自信のあるなしではなく、言われたからにはやるしかない。クラブに訪れたピンチを乗り越えるために自分に任されたことをとにかく全力でやるという思いでした。

──条件やノルマは?

一切ありませんでした。それはなく「まずは1年間、思い切ってやれ」と。「どんな結果であれ、数年は任せようと思っているからブレずに頑張れ」と。

──指導経験や方法論がないなかで、何か参考にしたものは?

僕は、フットサルの選手実績がないので、誰かの真似とか、参考とする先生とか、お手本はなかったですね。信じていたのは、自分の考え、理論だけでした。伊藤監督時代、僕は運営サイドの一番近い位置でトップチームを見ていて「自分だったらこうするだろうな」と思うところはあったので、それをやってみようと。

──試してみたい気持ちはわかります。が、「事務局員が大丈夫か?」となった選手もいたと思います。選手に信じてもらうために何かしたことはありますか。

その当時、所属する全選手に会いに行って直接話をしました。特に小山剛史、宮田義人、ラファ(山田ラファエルユウゴ)など、実績があり、チームに残ってくれる選手たちには、まずは自分の考えややり方を知ってもらう必要があると思ったので。境遇的に恵まれていたのは、伊藤監督が率いてプレーオフで3位になった、そうそうたる主力メンバーが一気に抜け、その穴を埋めるためにサテライトから多くの選手を昇格させ、とても若いチームを率いることになったところですね。新チームの大半のメンバーは、Fリーグでプレーしたことのない選手や、フットサル歴やFリーグでの実績の浅い選手が多く、そのような選手たちからすれば、監督が誰であろうとあまり関係はなく、とにかく必死にやろうという心理状況だったと思います。

──選手に会って、具体的にはどんな話を?

僕は、伊藤監督体制で選手たちが感じていた、チームに対する課題やストレスにフォーカスして、自分が監督をやるからには、そこはしっかりと改善、向上させるという部分を最大限、押し出しました。選手からしたら、自分たちが抱えているモヤモヤを取り除いてくれる救世主が現れた、みたいになったかもしれませんね。

──まさに人身掌握術。

元々のキャラクターも、伊藤さんと自分とは異なり、伊藤さんはシンプルでダイナミックなスタイルのフットサルを志向するタイプで、僕は緻密かつ理論的に構築するフットサルを志向するタイプだと思うので、選手たちが異なるタイプの指導者を欲する時期だったこともあると思います。そういうサイクルのなかでマッチしたのかもしれません

──苦労なくスムーズにスタートを切れた?

いえ、第1クールに結果が出なかったので、初めは苦労しました。アスレの伝統的な強さを引き出せていなかったことや過去にアスレが実績として残してきた結果に相応しいものを出せていなかったことはつらかったですね。就任から3カ月、リーグ戦で結果が出せていない状況のなか、救いとなったのは8月にオーシャンカップで準優勝したことでした。選手が泥臭く戦ってくれ、3試合中2試合はPK戦を制し、なんとか決勝まで勝ち上がった。残念ながら優勝とまではいきませんでしたが、この経験と準優勝という結果は自信になりました。オーシャンカップを終え、リーグ戦も第1クールが終わった後に、ダンタスやソロカーバ、皆本晃、柴田祐輔がチームに加わって、徐々に結果が出始めました。それ以前から、練習のつくり方が難しいとか、選手のコントロールが難しいとかは、あまりなかったです。選手がかなり協力してくれていたからだと思います。

──結果が出ないと、監督の求心力や説得力が薄れてしまいます。

そうですね。2013-2014と2014-2015シーズンはリーグ戦の最終順位は7位でプレーオフに出場できなかったので、監督としての求心力が落ちても仕方のない状況だったと思います。ですが、どちらのシーズンもリーグ戦終盤までプレーオフ出場争いをできていたので、なんとか選手のモチベーションを保つことができました。

──監督としてやっていける手応えをつかんだのはいつですか?

結果を出す出さないは問わず、練習を指導したり、試合で指揮を執るという意味で、ただ監督としての仕事を最低限こなすレベルであれば、早い段階から手応えはありました。先ほどお話しした、就任半年くらいの時期にオーシャンカップ準優勝という経験でさらに、そこそこやっていけるという感覚をもてましたね。

──いずれにせよ早いですね! 難しさは、その先にあった?

“結果を出すこと”は当然、競争なので。いい準備をしてもアンラッキーな失点もあるし、理想どおりにはいかない。むしろ、予想していないこと、うまくいなかいことに対してどれだけ対応できるかという部分や、引き出し、それこそが大事だなと。フットサルのおもしろさである戦術的な駆け引き、交代自由、タイムアウト、監督が試合中にいくらでも変化球を投げられるスポーツだからこそ、その柔軟性が求められると思うのですが、当時の自分には経験がないので、その変化の読み取りが試合後とかになってしまい、リアルタイムで気づけていなかった。

──勝負事の最中に状況を見極め、チームをどう動かすか。それには経験が必要だった。

当時、(2009年から2016年まで日本代表を指揮した)ミゲル・ロドリゴ監督が「日本の指導者のレベルは、5分遅れ。起きた事象について5分後に気づく。そこにタイムラグがあるから采配のアクションが遅れる。日本の指導者はまだそういうレベル」と話していて。僕自身、試合後に映像を何度も見返して、ターングポイントがどこだったかに気づいて、試合の見方を改善して、それを繰り返して。ようやく試合中でも目が追いつくようになりました。

──Fリーグは今も昔も名古屋一強です。資金面、環境面、選手層に大きな差がある状況で、そこに挑む監督の心境。たとえば、優勝へのモチベーションは保てていましたか?

当然、監督になって最初の数年はあきらめてはいないですが、徐々に「やっぱり無理かも」と思う部分は正直ありました。確率論で言えば、レギュラーシーズンの順位で名古屋を上回ること、たとえリーグ戦で直接、名古屋に勝つことができても、名古屋以外のチームに毎週勝ち続けることの難しさは、6年続けながら年々、強く感じていました

──ただ、名古屋との相性は悪くなかったですよね。

そうですね。名古屋との試合だけを切り取るなら、僕自身は毎年、1回は勝っていました。勝てなかったのは、最後の2018-2019シーズンだけ。ですから、プレーオフに戦いを持ち込めれば勝てるチャンスはある、レギュラーシーズンでは無理でも、一発勝負に近いプレーオフ制度においては、リーグ優勝を目指せると思っていました。

──プレーオフの一発勝負にモチベーションを。長期戦は割り切って。

そうですね。リーグ戦は相当緻密なマネジメント、現場だけではなく、運営、フロントも協力体制をつくらないと勝てないなと。それを唯一できたのが、木暮(賢一郎/現日本代表コーチ)さんが率いたシュライカー大阪。Fリーグの14年間で一度だけです。

──監督を務めた6年間、選手の期待に応えてきたという実感はありますか? 全選手というのは、どんな監督でも無理でしょうけど。

これは選手に聞いてください(笑)。ここ数年、何名かの選手がチームを一度離れてまた戻ってくるというケースが起きていて、またアスレに戻りたいと思ってもらえる一つの要素として、自分の行いが少しは影響しているのかもしれません。2020-2021シーズンで引退した上福元俊哉は、僕も戻ってきてもらいたいという思いがありましたし、本人から「最後は府中で終えたい」と相談を受けて、復帰が決まりました。彼以外に、チームを離れてもたまに会ったり、連絡をくれる選手もいました。合計60人〜70人くらいの選手と関わりましたが、6割くらいは、選手といい関係値を築けた実感があります

──だからこそ、長く続けられた。

多くの時間を共にする選手たちと最悪の関係であれば長続きはしないでしょうね。ただ、当然、自分に対して不満をもっていた選手もいたでしょうし。選手に対してもっとこうしてあげられたら良かったな、という思いは、たとえいい関係値を築けた選手であっても、誰に対してもあって。そうした反省の部分を忘れないようにしています。今になって「あのときは悪かった」と謝罪する機会はないですが、自分のなかでは、次の成長の糧として生かさせてもらっています。

──府中での最高の思い出は? やはり2015年のオーシャンカップ優勝ですか?

やっぱり、タイトルは一番の思い出ですかね。でも、最初のオーシャンカップで準優勝したときの感触も大きくて。その2013-2014シーズンのカップ戦は、先ほども話したとおり、前年までのそうそうたるメンバーが抜け、さらに小山もケガで不在となり、ほぼ実績のない若いメンバーで臨みました。それでも、「チームは結束したら、足し算ではなく、掛け算になる」と実感できました。結束できた一番の要因は、みんな貪欲だったことですね。活躍したい、試合に出たい、そういう野心にあふれていた。あの集団は、失礼な言い方ですが、実力的には弱小集団で、劣等生の集まりだったかもしれないですが、その同じ境遇ということが、チームがまとまる要因になってよかった。それは監督として考える一つの理想のチームとして、思い出深いですね。

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