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「頑張るしかなかった」 地震発生からプロテスト合格までの歩み【岸部桃子が振り返る3.11】

QTランキング22位でレギュラーツアーに参戦した昨シーズン、安定した成績を残して初シードを獲得した岸部桃子。終盤の「伊藤園レディス」では優勝争いのすえ2位に入る活躍をみせた。だが、それまでのプロ生活は決して順風満帆なものではなく、東日本大震災が起きた12年前の3月11日を境に、それまでのゴルフ人生様変わりした。“被災者”として、そして“プロゴルファー”としての12年間を振り返る。前編は地震発生当時からプロテスト合格まで。

地震が発生した2011年3月11日午後2時46分。まもなく春休みを迎えようとしていた当時高校2年生の岸部桃子は、福島県双葉郡にある県立富岡高校の理科室で授業を受けていた。

「すごく揺れたのは覚えている。そして最寄りの駅も、自宅から学校までの道も閉鎖されてしまって、迎えに来てくれようとしても帰れない。その日は高校に泊まりました」

無事ではあったが、周りを見渡すとこれまで見たことのない光景が広がっていた。棚からはモノが崩れ落ち、自宅があったいわき市からは車や電車でおよそ1時間弱だが、帰宅することはできず。さらに一夜明けると、別のニュースが舞い込んできた。

「原発(福島第一原子力発電所)が爆発するかもしれないという話になって、高校に避難していた人たちで、別の場所にもう一回避難した」。原発は富岡高校から北に13キロ程度のところで、車ではわずか30分の距離に位置していた。

そこでやっと家族に会うことができ、自宅に戻ることになった。だが、木造だった自宅は「大黒柱にヒビが入って」と“全壊”判定。原発も爆発事故が起こり、当時中学3年生で卒業を間近に控えた妹とともに千葉県に避難した。「母がわたしと妹を連れていってくれた」。コーチの横田英治氏が当時所属していた江連忠ゴルフスタジオ(ETGS)の寮に、2カ月ほど滞在した。

そして富岡高校のサテライトが開設されることが決まり、5月にいわき市に戻った。「学校はサテライトになったけど、福島市の高校にスポーツ科が集まる予定だった。でもわたしは自宅から通えるサテライトを選んで、部活はわたしひとりになりました」。県中央の“中通り”北部の福島市ではなく、海岸沿いの“浜通り”の南部のサテライトを選択した岸部は、チームと離れ、地元でひとり挑戦する日々が始まる。

地震発生時に部室においてあったクラブは、原発事故の影響で立ち入り禁止区域となり、マイクラブは手元に届かない。それでも残り半年を切った同年10月のプロテスト1次予選が控えるなか、立ち止まっている時間はなかった。

「寄せ集めってほどではないけれど、横田プロがメーカーさんに頼んでくれて…」とコーチが用意してくれたクラブを福島に持って帰り、練習を始めた。授業が終われば部活の時間だが、一人で練習場に足を運び、黙々とボールを打ち続けた。

「頑張るしかなかったから。寂しかった気持ちもどうしていたかっていうよりは、乗り越えるしかなかった。2カ月避難したときにコーチをはじめたくさんの人にとてもお世話になったから、結果で恩返ししたい、合格したいという気持ちだけで毎日頑張っていました」

プロテスト1次を突破すると、翌春の2次もクリア。そして12年7月、母が応援に駆け付けるなか、トータル4オーバー・18位タイでプロテストに一発合格を果たした。

取材/文・笠井あかり

岸部桃子(きしべ・ももこ)
1993年12月25日生まれ、福島県いわき市出身。8歳でゴルフを始めると、2012年7月のプロテストに一発合格。16年には下部のステップ・アップ・ツアーで勝利を挙げると、21年にも同ツアーで勝利。22年シーズンはメルセデス・ランキング39位で初シードを獲得した。塩田建設所属。

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