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退団? 農業? 引退? 今? 元バサジイ大分の主将・森洸について、このオフ浮かんだ疑問を解消。33歳の現在位置とは

“バサジイ大分退団”も去ることながら、SNSにアップされた“農業に勤しむ姿”も、なかなかの衝撃だった。

森洸は今、どこで、何をしているのか──。

デウソン神戸時代はアルバイトをしながら夢を追い、大分に移ってからはプロ選手として邁進した。やがて、Fリーグ屈指の「点の取れるフィクソ」と評され、チームキャプテンを務めるまでになった。そして3年が経ち、森は、2020-2021シーズンをもって、第一線を退いた。その理由と今後、現役時代について、彼は、すっきりとした顔で、清々しく語ってくれた。

プロとして3年間やりきった。若い選手の情熱に気負けした

──本当にお疲れさまでした。ただ昨シーズンのベスト5に推す声もありましたし、まだ33歳。正直、驚きでした。引退の理由は何ですか?

引退とは、実は言っていないんです(笑)。Fリーグという舞台で戦っていた自分が、今シーズンはどのチームにも所属していないことに対して「引退」という言葉が出るのは当たり前ですが、僕自身は「生涯スポーツ」という捉え方をしているので、引退という表現はあまり好きではないんです。

──それは、失礼しました。

いえいえ、第一線から退いたのは事実なので。大分では、プロの環境を用意してもらっていましたが、今は神戸市に戻ってきて仕事をしています。またチャンスがあれば、どこまでのレベルかはわからないですが、この先もフットサルをプレーしていきたいです。チャンスをもらえるのであれば、自分の思いだけではプレーできないですけど、Fリーグにもチャレンジしたいという気持ちも残っていたりします。

──大分ではプロの環境。年俸制ですか?

そうです。フットサルに専念できる環境で、1年契約を毎年更新する形でした。

──2020-2021シーズン後にもクラブのGMと話を。

昨シーズン終了後に話をして、更新の話もいただきましたが「すみません」と。自分で退団を選びました。

──プレーしようと思えばできたのに、なぜ?

理由はいろいろあるんです。長くなりますが。

──全然、構いません。聞かせてください。

3年前、大分にオファーをいただいたのと同じタイミングで、伊藤雅範さんが監督に就任して「この3年間は常に優勝争いができるチームづくりをしたい」とお話をもらいました。自分のなかでもそれが大きくて、「3年間」と覚悟を決め、プロでのチャレンジを決断しました。実際、3年間大分に所属できて「やることはやれた」という思いがある。というのが1つ目の理由です。

──コロナ禍で1年延期となりましたが、3年目となる昨シーズンは本来、ワールドカップイヤーでした。

W杯は、自分にとってイメージがあまりなかったです。3年前に大分に移った時点で、代表歴はなかったですし、入れると思っていなかったので、W杯でひと区切り、というのはなかったです。

──とにかく3年間やりきろう。そしてやりきった、と。

そうですね。あとは、若い選手の野心や情熱に気負けしたところがあります。特に吉田圭吾や山田凱斗といった若い選手と日々練習するなかで、飲まれている感覚が昨シーズンは自分のなかにありました。情熱で負けているなと、正直なところ。

──それが2つ目の理由ですね。

もう1つ、自分は好奇心旺盛というか、いろいろなことにチャレンジしたい人間なので。違う分野、新しいことにチャレンジしたいと思い、このタイミングで決断しました。

──他のチームで、というのは一切?

イメージしていなかったです。大分退団が決まった後、実際にお話をいただいたりもしましたが、神戸市に戻ってしっかりと仕事をしたい、という思いが強かったです。

──名古屋オーシャンズは別として、環境や給料で大分以上を望むのは難しいですものね。

たしかに、バサジィ大分でプロ環境の大きさを実感しましたし、プロ契約にこだわりはあったので。他のチームを選択する考えが浮かばなかったのは、それが大きかったかもしれないです。今後はまず、仕事を基準にしていくことが、人間として、生きていく上で重要なので。結婚もしていますし、安心して妻を支えられるようにしていけたらと思っています。

──では、今の道は以前からイメージしていたもの?

そうですね。デウソン神戸時代に、神戸市内にサッカー・フットサルスクールを立ち上げていて、そこでもう一度、子どもたちと関わる仕事がしたいとずっと思っていました。今は、そこに戻った形です。

──農業は? SNSで農具を扱う森さんの姿もインパクトがすごくあった。

農業は、スクールの事業の一環です。スクールを一緒に立ち上げた仲間が主にやっているので、自分はお手伝い程度ですが、いろいろと感じることはありますね。

──今はどんな生活を?

7月から新しくスクールを別会場でも開校するので、その準備を日々しながら、週に1、2回くらい農業を、というサイクルです。

──スクールは何校目で、規模感は?

大きな会場を使っているのは次で3校目で、すべて神戸市内です。生徒は幼稚園児から小学生で、生徒数は既存2校の合計で350〜400人くらい。まだまだです。

──あくまで仕事が基準にあって、折り合いがつけば、またプレーをしたい。だから引退とは言わない。

そうですね。

夢を追っていた神戸、自信を得た大分、順応できなかった代表

──ここからはフットサル人生を振り返っていただきたいと思います。フットサルを始めたのは?

最初に足を突っ込んだのは、中学生の頃です。サッカーの息抜きとして、地元の徳島県で父が運営していたフットサルコートで、大人のなかに入れてもらったのがきっかけです。高校は兵庫県の滝川第二高校だったのでサッカーにどっぷりでしたが、公式戦には最後まで出られず、サッカーの道は難しいなと。

──その頃から競技フットサルの道に入って行った。

2007年にFリーグが開幕して、試合を見に行って、こんな舞台があるんだと知って真剣に取り組み始めました。

──当時は大学生?

はい。大学4年間は、フットサルにのめり込みすぎて、アホみたいにフットサルのことだけを考えていました(笑)。大学1年生のときは、徳島県の父が所属していたチーム(※編集部注:SKY Futsal Club Tranco/地域CL出場歴のあるチーム)に週末の試合の度に通っていました。そのうち通うのがしんどくなり、大学2年時はAFC神戸にお世話になって、3年生のときにデウソン神戸アスピランチ(サテライト)のセレクションを受けに行きました。

──神戸のトップチームに昇格したときは、どんな印象でした?

いやもう「こんなうまいんや」って。フットサルは思っていた以上に奥が深くて、衝撃的で。パッシャン(西谷良介/現名古屋オーシャンズ)も、スズさん(鈴村拓也/現神戸監督)も、あの当時いた選手はみんな上手で、とにかくついていくのに必死でした。

──Fリーグデビューは、2010-2011シーズンですね。

正直、緊張しすぎて、最初の頃は何も覚えていないです。一番印象深かったのは、名古屋かな。リカルジーニョ(※編集部注:スペインリーグの“ビック3”インテル・モビスターを経て、現在はフランスリーグのACCSパリに所属。世界最高の選手の一人とされている)がいて“遊ばれた”という感覚です。こんなすごい選手が日本にいてるんやって、他の選手も、本当にみんなすごかって、別物やなって。

──手応えを感じ始めたのは?

正直、神戸時代は全然、自信がなくて、大分に移籍してからですね。

──そうなんですね。神戸時代は仕事をしながら?

大学生のときから、ずっとバイトです。26歳のときにスクールを立ち上げたので、それまではアルバイトで、恥ずかしながら親のスネをかじって、夢だけを追っていました。26歳って、まあまあいい歳じゃないですか。本当に、両親には感謝しています。

──大分で自信を得られたのは、環境が大きかった?

それは大きかったですね。選手に専念できることもそうですし、何よりも、プロ環境が与えられているのが名古屋と大分だけなので、モチベーションも「仕事をしながらプレーしている選手には負けられない」と。メンタルも大きく変わりましたね。

──チーム全体にその雰囲気があった?

はい。伊藤さんがよく口にしていました。「この環境を与えられているから、簡単に負けてはいけない」と、3年間ずっと。

──技術と体については?

自分の体と向き合う時間をすごくつくれました。神戸では、練習が終わってすぐに仕事に行っていましたが、大分ではそれを言い訳にできないし、周囲の意識も高かった。そのなかで競争があり、ポジション争いをするからこそ、何かしら取り組まないといけない、となりましたね。

──大分での2年目、2019-2020シーズンに日本代表に初招集されました。

はい、けれど先ほども話しましたが、やはり、夢にも思っていなかったというか。率直に、最初はうれしかったです。でも、仁部屋(和弘)の存在がすごく大きくて。彼と代表の話をしたときに、代表に懸ける思いの違いを強く感じました。

──とはいえ、森さんにもプロのプライドがあったと思います。代表選手はもっと違う次元の覚悟があった?

そうですね。行ってみてわかったというか、やっている戦術もそうですし、うまく順応できなかったなと。

──戦術的にも大分とは大きく違った。

代表のフットサルはやったことがないことが多すぎました。特にディフェンスは、イプシロンとかゾーンディフェンスとかの指示をされても、ずっとマンツーマンがベースのチームでやってきたので、最初は理解できなかった。フットサルがこんなに違うんだ、という感じでしたね。

──複雑だった?

もう、ただただ「難しいな」と。

──たとえば、若い頃にそういう知識を得る機会があれば、とか思ったりは?

思うこともありました。でも、代表合宿期間でうまく順応できる選手はできるので、結局は自分自身の能力不足だったのかなと思います。

──客観的に見て、森洸はどんな選手でした?

難しいですね。そんなに大きな特徴を持つ選手ではなかったと思います。でもやるべきことはやれる選手だったのかなと。それは、最後の最後で体を投げ出すとか、ゴールへのこだわりを持っているとか……難しいですね。逆に、どう見えました?

──「フィクソなのに点を取れる選手」ですかね。今話された、ゴールへのこだわりというのは?

これは、神戸時代に鈴村監督に言われたのですが「ゴール前5メートル。自陣でも敵陣でもゴール前5メートルで仕事ができるのが、良いフィクソだ」と。それはすごく意識しました。なので、守れるし、攻められる選手をずっと目指していました。それが、こぼれ球を拾えるとかにつながっていたのかなと思います。

──たしかに、いいところにいましたよね。嗅覚というか。

僕自身は、味方の選手に生かされるタイプの選手であり、味方を生かすタイプでもあったので、それぞれの選手の特徴を理解することに努めていました。この選手はこのタイミングでシュートを打つとか、あの選手はこの角度からは打たないだろうとか、その辺の観察や予測につながるところは意識的に取り組んでいました。

──そういう極意があったんですね。後悔とかはありますか?

後悔は、今はないです。もしかしたら後々出るかもしれないですけど。

──将来のビジョンは?

今思っているのは、子どもたちがサッカーやフットサルに限らず、いろんな種目を経験しながら、もっと言えばスポーツだけでなく、農業とか全く違う分野も、いろんな経験ができる環境を整えたい。そのなかで「フットサルに進みたい」と言ってくれる子が増えるといいな、と。そういう形で、フットサル界に貢献できたらいいなと思っています。

──最後に、今後のフットサル界に期待することはありますか?

夢をもってチャレンジできる舞台であってほしい。今の若い世代の選手もそうですし、これから関わる子どもたちが、一つの選択肢として、Fリーグでフットサルをやりたいと思ったときに、不自由なくというと語弊がありますが、躊躇なく飛び込める場所であってほしいなと、思います。


※写真はコロナ禍前に撮られたもの

森洸オフィシャルブログ「Nana no moe」

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