ジョーダンはなぜ野球に挑戦したのか。名プレイヤーたちの現在【NBA講座vol.16】

NBA選手は一生NBA選手として活躍し続けられるわけではない。1984年生まれのレブロン・ジェームズは、2003-04シーズンに高卒(18歳)でドラフト1位でNBA入りしたが、2025-26シーズンで23年目。これはNBA最長の現役生活であり、2025年12月で41歳を迎えるがまだまだ現役のためもう少し長くなりそうでもある。
レブロンのようなケースは非常に稀であり、その他大勢の選手は前回の記事でも紹介した通り「約4.5〜4.8年」の平均在籍年数という数字が出ている。

今回の記事では、ジョーダンの野球挑戦をはじめ、ユニークなセカンドキャリアを送っている選手たちについて紹介していこう。

前回記事:
ジョーダンは今、何してるの?あの人って今、ヘッドコーチなの!?90年代に活躍した名プレイヤーたちの現在【NBA講座vol.15】

※前回記事では、基本的なセカンドキャリアやビジネスで成功・失敗した選手などについて記載

マイケル・ジョーダンのユニークなキャリア

前回の記事では「ジョーダンの現在」にフォーカスしたが、現役時代にジョーダンが「父のため」に行った挑戦について触れていきたい。きっと、ジョーダンが好きなあなたであれば、ジョーダンが1回目の引退後に「野球」に挑戦したことはなんとなく知っているはず。ジョーダンが野球を選んだのは、ジョーダンの父:ジェームズ・ジョーダンが大の野球ファンであり「マイケルにはいつか野球選手になって欲しい」と思っていたことが根底にある。

ちょうどジョーダンがシカゴ・ブルズで3連覇を達成した1993年6月。その翌月末に、父であるジェームズ・ジョーダンは強盗に襲われて殺害されてしまった。この事件を受けて、父を心からリスペクトしていたジョーダンはナーバスになり、またバスケットで3連覇という偉業を成し遂げたことによる区切りの良さから、同年10月に突如引退を発表する。

引退発表してからまもなく、ジョーダンはMLBのシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約を結び、ホワイトソックス傘下の「バーミングスハム・バロンズ」というチームに入る。マイナーリーグのチームではあったがジョーダンはライトで先発出場するケースも多かった。ジョーダンは恵まれた体格と運動能力によって「守備範囲」と「盗塁」で野球では活躍したものの、なかなかヒットやホームランを打つことができなかった。要はバッティングの成績がよくなかったのだ。MLBレベルのピッチャーから打つことはそう簡単なことではないのだ。それでもジョーダンは、1994年4月からのマイナーリーグのシーズンで127試合に出場し30盗塁・51打点を記録。現地メディアは「もし続けていればMLBに届いたのではないか」という声を上げたこともあった。

ただ、残念ながら1994年8月にMLBはストライキを実行。ストライキが起きるまでほぼ全試合に出場していたジョーダンは、このタイミングを持って野球の道を断念せざるを得なかった。そして、野球ができなくなったジョーダンは再びNBAの舞台に帰ってくることとなる。その後にもう一度3連覇を達成し99年に二度目の引退。そして2001年にはワシントン・ウィザーズの選手兼副社長として再びNBAのコートにたち、2003年に3回目の引退(完全引退)をした。

少し話は戻るが、ジョーダンは1回目のNBAを引退しMLB挑戦した際に「45番」を着用した。これはジョーダンが高校時代につけていた番号であり「初心を忘れない」「新たなスタート」として改めて着用した。その後NBAに復帰した1995年の1年間だけ「45番」を着用したが、翌年に「ブルズの自分は「23」が象徴的である」と考え「23番」のユニフォームを再びまとった。
ちなみに、この「45番」は父親であるジェームズ・ジョーダンが野球をやっていた時の番号ではない。そもそも「45番」はジョーダンの兄であるラリー・ジョーダンが高校時代にバスケで着用していた番号であり、マイケル・ジョーダンは「兄の半分でも上手くなりたい」と、半分の番号である「23」を選んだ。どうしてもタイミング的に父への弔いとして「45番」を着用したように勘違いされがちだがそうではない。野球にチャレンジするという行為そのものが、父への弔いだったのだ。

▼ジョーダンの引退・復帰のサイクル一覧

出来事 年月 理由 補足
1回目の引退 1993年10月 父の死後、野球挑戦のため ブルズ初の3連覇(1993年6月)直後に引退
1回目の復帰 1995年3月 NBA復帰、背番号45 「I'm back」のFAXで発表
2回目の引退 1999年1月 バスケットボール引退(最初の現役終了) ブルズ2度目の3連覇後、チーム再編もあり完全引退と報道された
2回目の復帰 2001年 ワシントン・ウィザーズに移籍・現役復帰 選手兼チーム副社長としてプレー
3回目の引退 2003年 NBA完全引退 2度目の現役復帰を経てキャリア終了

 

ユニークなキャリアを送ってきた選手たち

デイブ・デバッシャー

だいぶ古いが、NBA選手で唯一MLBと両方でプロキャリアを持った唯一無二の二刀流選手。バスケでは198cmのフォワードとして、1970年と1973年にニューヨーク・ニックスでNBAチャンピオンになり、またオールスターにも8回選出されたほどの実力者である。優勝する前は1965年から67年まで、所属していたデトロイト・ピストンズではNBA史上最年少の24歳で選手兼コーチとしてプレーするなど、当時から常に新しいチャレンジを続けていた。

デイブがMLBでも活躍したのは1962-63シーズンのみ。シカゴ・ホワイトソックスでピッチャーとして36試合に登板し3勝4敗という記録を残している。1963年8月のクリーブランド・インディアンズ戦では完封勝利を収めたこともあり、投手としてもその実力を発揮した。

デイブは2003年になくなってしまったが、1983年にNBAで殿堂入りを果たし、また着用していた「22番」はニックスの永久欠番にもなっている。バスケと野球の両方でプロとして契約をし、大谷翔平以上に理解不能な二刀流選手として歴史に名を残した彼は、今もなお伝説的な存在として語り継がれている。

ネイト・ロビンソン

175cmで3度のダンクコンテストを制覇したネイト・ロビンソンは、低身長ながらも圧倒的な跳躍力とアスレチックなプレーで10年間NBAに在籍。現役時代は229cmのヤオ・ミンをブロックするという離れ業(50cm以上の身長差)を起こしたり、試合中に乱闘騒ぎを起こすなど、プレーでもプレー以外でも話題に事欠かなかった人物である。

NBA在籍中もNFLに挑戦するという噂が流れたりもした。これは彼の父のジャック・ロビンソンがNFLのランニングバック(フィラデルフィア・イーグルス)として活躍したことが背景にあり、自分もフットボールに挑戦したいという思いからの行動だったが、結局彼がNFL入りを達成することはなかった。
そんな中、引退後の2020年11月にプロボクシングデビューを果たす。そもそも闘争心溢れるタイプであったため、格闘技のように勝ち負けがハッキリわかるスポーツには以前から興味を持っていたそう。
そんな中で、言葉を選ばずに言えば「話題作り」の1つとして、マイク・タイソンvsロイ・ジョーンズ・ジュニアの前座として人気YouTuberのジェイク・ポールとクルーザー級6回戦で対決が実現。残念ながら2回KO負けを喫してしまったが大きな話題にもなった。
以降、ロビンソンは自身の陽気なキャラクターを生かして、シャキール・オニール主催のチャリティイベントやライブショーに登場したり、ESPNなどでメディア出演をするなど多方面で挑戦を続けている。半年ほど前に腎臓移植手術を受け現在は療養中であるが、SNSではマメに現在の状況を発信中。1人のファンとして、また元気に過ごす彼が見たいものだ。

デロン・ウィリアムズ

2017年に引退した元スーパースターであるデロン。2008年と2012年のオリンピック金メダル獲得にも貢献し、オールNBAのセカンドチームにも2度選出されている。ユタ・ジャズにドラフト入りしたデロンは、当時ジャズでカルロス・ブーザーとコンビを組み大躍進を果たす。かつてジョーダンとNBA FINALで何度も対戦したジャズの名コンビ:ジョン・ストックトンとカール・マローンを思い出させるようなスターであり、「ポイントゴッド」こと史上最高とも言われる名ポイントガードのクリス・ポールとライバル関係にもあったほどだ。

そんなデロンは、2021年12月に37歳でボクシングに挑戦する。そもそもデロンは、アメリカのスポーツ専門サイト『The Athletic』によれば、高校時代から格闘技に関心があり、高校に入る前にはレスリングでテキサス州のチャンピオンに2度も輝いた実績があるんだとか。

ボクシングに関しては、2021年12月19日に、エキシビジョンマッチとして元NFLの名ランニングバックであるフランク・ゴアと対戦。4回判定勝ちという成績を収めたが、自身がボクシングに関わったのはこれが最初で最後。以降はダートバイクのレースに参加したり、ゴルフのプロアマ大会に出場するなど、さまざまな挑戦を続けている。
ちなみに、デロンはビジネスでも成功をしており、不動産やフィットネスジム、時計などの分やでビジネスを展開中。

他にも、ユニークなセカンドキャリアを送る選手たちは多い

シカゴ・ブルズでジョーダンと共に3連覇達成に貢献したロン・ハーパーは、格闘技のジムでトレーナーとして活動したり、1990年代後半から2000年代前半にかけてサンアントニオ・スパーズのツインタワーの一角として存在感を放ったデイビッド・ロビンソンは、現役中に海軍士官として活躍した。

現在は情報社会で選択肢も非常に多い時代。同時に、ジョーダンの時代以上に現役選手の年俸は高い。今全盛期を迎えている選手や、これから輝く選手たちが、引退後にどんなキャリアを歩むのかは、今後も注目していきたい。