「お前、バスケやってたのか?」9年ぶりにボールに触れたのはハーレムの路上だった【第2話】

「他の道で結果を出そう、そしてまた集合しよう」

── でもプロを目指すなら売れようとするのは自然だと思いますが。

廣島:自分たちが作りたい歌を作って、それぞれの生き方がかっこよければ当然、音楽もかっこよくなるよね、とバンドのメンバーと話しました。

それぞれが得意な領域でお金を稼ぎ、社会的にも信用され、そこで説得力を持とうと。

だって、ソフトバンクの孫正義さんがもし実はバンドやってたら、みんな聞きたいじゃないですか。社会的な信頼・成果があって、さらにその音楽がかっこよければ流行ると思うんですよ。

“それぞれが他の道で結果を出そう、そしてまた集合しよう”と。ワンピースの修行の2年みたいなノリで。僕、ワンピース大好きなんで(笑)。

アメリカの路上で習字パフォーマンス

── そこから、廣島さんは何をするんですか。

廣島:喉を壊す前に、アメリカに行く企画が決まってたんですよ。路上ライブで現地で稼ぎ、旅をしながらジャーニーポップという企画で、もうチケット買っていて。

写真:旅で歌う廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人

── でも、声出ないじゃないですか。

廣島:そこは、なんとかなるだろうと。

── さすがですね(笑)。現地ではどうやって生活したんですか。

廣島:最初は、路上で漢字を書いて売りました。「舞蹴(マイケル)」とか書いてチップをもらう。

次に、日本のアニメが有名だから、似顔絵を書いて売る、というのもやりました。絵を書くのも好きなほうだったので。100枚くらい書くと、また上手くなってくるんですよ(笑)。

写真:廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人

── 多才ですね(笑)。

廣島:でも、結局あまり稼げないから、自分から声かけるんじゃなくて、来てくれる仕組みを作ろうと思いました。

リサイクルショップでボロボロの和服を買って、髪を結び、和の音楽を流して習字パフォーマンスをしてみました。

すると列ができたりして、わりとうまく行き始めたので、街を移動しながら、路上で稼いで暮らしました。“バスカー”っていうらしいんですけど。

写真:廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人

──どれくらいの期間ですか?

廣島:60日間くらいですね。書道家になろうかと思ってました(笑)。

で、移動を続けていくうちに、ハーレムという街に行き着いたんですよ。そこに、バスケの有名なストリートコートがあって、黒人たちがバスケしてたんです。

あ、そういえば俺、バスケしてたなと。

ハーレムの路上で9年ぶりにバスケットに再会

── ハーレムでバスケに再会するんですね...。

廣島:18歳で辞めて当時27歳だったので、9年が経ってました。もう膝も痛くなかったので、“Hey”とか言いながら、飛び入り参加したんです。

体力はないんですけど、意外と動けました。

バスケでクタクタになると、仲良くなるじゃないですか。“お前やるな、日本から来たのか”“飯でも食いに行こうぜ”とご馳走になったり、行くところないならって泊めてもらったり。

写真:アメリカでの廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人

── なんか、グッときますね。

廣島:習字で稼ぐより、生きていける。別に必ずしもお金に換算できなくても、これも自分の価値だと思ったんです。

あれだけ打ち込んできたバスケットは、自分の価値なんだと初めて気がつきました。

日本に帰ってバスケットに打ち込んで、Bリーガーになろうと思いました。

写真:廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人

27歳でBリーガーを目指すも落選

── 5人制バスケですね。Bリーグに27歳で挑戦というのは、年齢的に難しくはないんですか。

廣島:今なら、チーム運営をしているので、その難しさもわかります。可能性のある若手と、実力のあるベテランの間の、中間層の選手の出場機会はどうしても少なくなるので。

でも当時は、実力で証明してやるとしか思ってなかったですね。

── それで日本で練習を再開するんですか。

廣島:実家に住まわせてもらって、当時出始めのUber Eatsのバイトで朝から自転車漕いで下半身を鍛えて。当時Uber Eats使ってるのは外国人富裕層が多かったので、仲良くなってチップで稼いだり(笑)。

午後からはすべてバスケット練習という生活を一年続けて、28歳のときにトライアウトを受けました。

── 結果は。

廣島:受けられるところを全部受けましたが、契約は取れませんでした。最後のピックアップゲームまでは残ることはあってもあと一歩が本当に遠い。

再開するのが遅かったなと思いましたが、そんなに落ち込むこともありませんでした。

── そこからどうしたんですか。

廣島:3人制バスケの大塚製薬のチームにいた先輩から、練習に参加してみないかと誘ってもらって。

行ってみると、バスケットができる場がある喜びと、自分が必要とされるかもしれないという希望を感じました。あと40歳とかでもやってる人がいて、こっちのほうが自分にはチャンスがあるなと。プロと名乗れるところも自分に合っていました。

── そこから、3人制バスケットの世界に入っていくんですね。

廣島:はい。その後、湘南のチーム運営企業への選手兼社員などを経て、印西市のチームが立ち上がるときに、印西ライノスに選手として入りました。

── 28歳のときですね。

廣島:はい。その後も選手を続けながら運営したり、営業もがっつりやって。

印西市に約5年間住んで、事業面でも多くの経験を積んで、今年からチームオーナーも務めることになり、そして今です。

── 波乱万丈の人生、ひとまず現在地にたどり着きました(笑)


写真:廣島祐一朗(印西ライノス)/提供:3x3.EXE PREMIER

ストリートバスケの聖地 “ラッカーパーク”だった

廣島が、放浪の末に行き着いた街・ハーレム。
路上でバスケットをしていたそのコートは、ストリートバスケの聖地と呼ばれる “ラッカーパーク”だった。

聖地が彼を呼んだのか。あるいは彼が聖地を求めていたのか。

ある偶然を、自分にとっては必然だと信じられる強さと行動力、人と違って上等という自尊心が廣島にはある。

そう伝えると、廣島は“プレーはわりと調和を重んじるタイプなんですけどね”と、愉快そうに笑った。

最終第3話では、廣島が選手兼オーナーを務める、北総ライノスの現在に迫る。


▶︎「選手はショーマン」プロバスケ選手兼歌手が見つめるスポーツとエンターテインメントの融合【第3話】 に続く

取材・文:槌谷昭人

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