プロバスケット選手と歌手を両立させる男 挫折と挑戦の物語【第1話】

アカペラをきっかけに音楽にハマる

── 大学では何をやるんですか。

廣島:そこで音楽と出会うんです。日体大なのに(笑)。

もともと、高校3年のウインターカップ終わって入学までの期間にアカペラにハマって、バスケ仲間と学校終わってカラオケで練習してたんです。文化祭でモテたいな、歌だなって(笑)。

バスケットをそこまでやってきた人たちなので、努力家だし、真面目なのでけっこう上手くなって、楽しくて。

『ハモネプ』というフジテレビの番組の大会予選で、最終20組にも残ったりして運よくテレビ出演しました。

── すごいですね。音楽は好きだったんですか。

廣島:母がピアノ教室を開いたり、バンドをやっていたこともあって、音楽は身近にありましたね。

── で、歌手になろうと。

廣島:いや、当時はふざけて言ってましたけど、現実味もないし、教員になろうと思って勉強してました。

ただ、大学1年で、有志が行く教育実習に応募して小学校に行ったとき、衝撃を受けて。

── というと。

廣島:自分がすごく一生懸命やっているつもりが、めちゃくちゃ怒られるんです。先生や先輩たちに。

僕は子どもは好きだし、わりと好かれてたんですけど、子ども目線に自分もなっちゃうというか、つい、一緒になって遊んじゃったり。

それまで、サラリーマンやるぐらいなら先生になろうかな、くらいの感覚でしたが、先生を夢にやっている人たちのモチベーションの高さに圧倒されて。僕がやるべきではないのかな、と思いました。

── また挫折ですね。

廣島:でも、実習をやり抜いた最後のお別れの会で、子どもたちが歌を歌ってくれたんです。僕が歌を好きでいつも一緒に歌ってたから、子どもたちと。

その歌を聞いたときに、号泣してしまって。

歌っていいな。やっぱり歌がやりたいなと。

そこで家帰ってすぐ、子どもたちに対するお礼の歌を作曲、初めてのオリジナル曲を作って、その小学校に歌いに行きました。

歌う廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人

── すごい行動力ですね(笑)。

廣島:今でも、あのときの心を忘れたくないと思ってます。

で、本気で歌手を目指そうと授業も全然行かなくなりました。

日体大なんで、スウェットやジャージの人が多いんですけど、僕はライブをするからバリバリおしゃれして、ギターを持って学食で歌うんです。浮いてたと思いますね(笑)。

親からは頼むから卒業だけはしてくれと言われて、ギリギリの単位で卒業するんですけど。

まさかの“ピンポンライブ”

──卒業後はどうしたんですか。

廣島:卒業後は、路上ライブをやっていくんですけど、ほとんど立ち止まってくれない。

確実に1人1人に聞いてもらう方法はないかと思って、人の家にピンポーンってチャイムを押して「(歌の)お届け物です」というのをやってみたんです。宅配便かなと思って出てきてくれた瞬間に、歌い始める。

“ピンポンライブ”と名付けてその活動を始めると、すごく嫌がられて“通報するぞ”と言われるか、めちゃくちゃ喜んでくれるか、だいたいどっちかなんですよ。

写真:ピンポンライブで訪問した家で歌う廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人

── えーっと。そのアグレッシブさを、なんと表現してよいのか(笑)。

廣島:喜んでくれた人にはリクエスト曲を聞いて、その曲が弾けなかったら“練習してきます”と言って帰って、寝る間も惜しんで練習して、次の日また行く。

そしたらこんなに練習してくれたんだってファンになってくれて、そんな繰り返しで、地元に少しずつファンが増えていきました。

──日体大だと周囲は教員や企業に就職した人も多いと思うんですが、比べて不安になることはなかったですか。

廣島:まったくなかったですね(笑)。人と同じことが嫌な、天邪鬼な気質なので。

路上で歌う廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人

歌があった

中学生で日本代表に入った男は、靭帯損傷を繰り返してバスケット選手に挫折した。
教員を目指したが、周囲のモチベーションに圧倒された。

しかし、そこに歌があった。

ちなみに、廣島が再びバスケットに出会うのはもう少し先の話。


▶︎【第2話】「お前、バスケやってたのか?」9年ぶりにボールに触れたのはハーレムの路上だった」 に続く

取材・文:槌谷昭人

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