
写真:廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:左:3x3.EXE PREMIER、右:本人
プロバスケット選手と歌手を両立する男がいる。
3人制バスケのプロリーグ「3x3.EXE PREMIER」を戦うチーム、「北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE)」の廣島祐一朗(ひろしま ゆういちろう)選手兼オーナーだ。
チームの中心選手のひとりで、2025年からはチームオーナーも承継しながら、歌手としては、2024年のNHK紅白歌合戦で福山雅治のバックコーラスも務めた。
3人制バスケのプロリーグ「3x3.EXE PREMIER」は、所属する選手にデュアルキャリア(競技と本業以外のキャリアの両立)を推奨している。
身長190cm、32歳。
爽やかな笑顔で人を魅了する廣島のキャリアの軌跡は、だが実は、挫折と方針転換に彩られたものだった。

写真:歌う廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人
小学卒業時に身長180cm
── バスケットを始めたのはいつ頃ですか?
廣島:小学校4年生、10歳の時ですね。仲の良い友達に誘われて始めました。当時から体が大きく、小学6年の卒業時には180cmありました。野球やサッカーもやってたんですが、バスケに誘われてすぐに活躍できたことで“バスケ楽しい!”と。
── じゃあミニバス(小学生が行うミニバスケットボール)のゴールだとダンクできますね(笑)
廣島:してました(笑)。中学は近所の公立中学だったんですが、たまたまその地域で名将と呼ばれる先生に巡り合い、鍛えられて。中学3年のとき、U-15で初めて代表合宿に呼ばれました。ひとつ下に富樫勇樹(千葉ジェッツふなばし)がいました。
富樫勇樹(写真:千葉 格/アフロ)
── おお、すごい世代ですね。
廣島:彼らと一緒にプレーする機会があって、トップレベルを見させてもらったことが、その後も地元の決して強くはないチームでも続ける原動力でしたね。
ただ、中学3年の最後の引退試合でで、左膝の前十字靭帯を切ってしまいました。ずっとメモを取るだけで、結局その後のメンバーには選ばれませんでした。
── それはつらいですね。
廣島:リハビリを半年続け、高校は伝統校・神奈川の法政大学第二高等学校に行きました。
で、入学から半年後、やっとバスケできると思って練習しているときに、再断裂。筋肉はリハビリで戻ってるけど、腱はまだ完全にくっついてない状態だったんですね。
── 三井寿みたいですね...。
廣島:自分の代でキャプテンをさせてもらってインハイの神奈川県大会では優勝できるんですけど、結局、全国では結果は出ませんでした。
いまでも足にはボルトが入ったままです(笑)。

写真:高校時代の廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人
挫折:3回目の靭帯手術を前に
廣島:自分の代でキャプテンさせてもらって神奈川県大会では優勝できるんですけど、結局、全国では結果は出ませんでした。
その後、高校3年のウィンターカップ予選でも膝に限界が来て、半月板損症とまた靭帯が切れかけてしまって。
これまでの二度の左膝靭帯手術が、1回目は自分の左膝裏から腱を抜いて入れ、2回目は右から抜いて左に移植しました。
3回目は、親のどちらかを選んで腱を抜いてもらわないといけない、と言われて、びびってしまって。
── 壮絶ですね。
廣島:もう自分は全然動けないし、大学で選手を続けるのはやめようと思いました。
練習もきつかったので羽を伸ばしたい、男子校だったから普通に恋愛したいという理由もありましたけど(笑)。
教職をとって先生になろうと思い、バスケットで推薦をもらっていた日体大に、自分で一般入試を受けて入りました。
結局、入学してからバスケはやりませんでした。
アカペラをきっかけに音楽にハマる
── 大学では何をやるんですか。
廣島:そこで音楽と出会うんです。日体大なのに(笑)。
もともと、高校3年のウインターカップ終わって入学までの期間にアカペラにハマって、バスケ仲間と学校終わってカラオケで練習してたんです。文化祭でモテたいな、歌だなって(笑)。
バスケットをそこまでやってきた人たちなので、努力家だし、真面目なのでけっこう上手くなって、楽しくて。
『ハモネプ』というフジテレビの番組の大会予選で、最終20組にも残ったりして運よくテレビ出演しました。
── すごいですね。音楽は好きだったんですか。
廣島:母がピアノ教室を開いたり、バンドをやっていたこともあって、音楽は身近にありましたね。
── で、歌手になろうと。
廣島:いや、当時はふざけて言ってましたけど、現実味もないし、教員になろうと思って勉強してました。
ただ、大学1年で、有志が行く教育実習に応募して小学校に行ったとき、衝撃を受けて。
── というと。
廣島:自分がすごく一生懸命やっているつもりが、めちゃくちゃ怒られるんです。先生や先輩たちに。
僕は子どもは好きだし、わりと好かれてたんですけど、子ども目線に自分もなっちゃうというか、つい、一緒になって遊んじゃったり。
それまで、サラリーマンやるぐらいなら先生になろうかな、くらいの感覚でしたが、先生を夢にやっている人たちのモチベーションの高さに圧倒されて。僕がやるべきではないのかな、と思いました。
── また挫折ですね。
廣島:でも、実習をやり抜いた最後のお別れの会で、子どもたちが歌を歌ってくれたんです。僕が歌を好きでいつも一緒に歌ってたから、子どもたちと。
その歌を聞いたときに、号泣してしまって。
歌っていいな。やっぱり歌がやりたいなと。
そこで家帰ってすぐ、子どもたちに対するお礼の歌を作曲、初めてのオリジナル曲を作って、その小学校に歌いに行きました。

歌う廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人
── すごい行動力ですね(笑)。
廣島:今でも、あのときの心を忘れたくないと思ってます。
で、本気で歌手を目指そうと授業も全然行かなくなりました。
日体大なんで、スウェットやジャージの人が多いんですけど、僕はライブをするからバリバリおしゃれして、ギターを持って学食で歌うんです。浮いてたと思いますね(笑)。
親からは頼むから卒業だけはしてくれと言われて、ギリギリの単位で卒業するんですけど。
まさかの“ピンポンライブ”
──卒業後はどうしたんですか。
廣島:卒業後は、路上ライブをやっていくんですけど、ほとんど立ち止まってくれない。
確実に1人1人に聞いてもらう方法はないかと思って、人の家にピンポーンってチャイムを押して「(歌の)お届け物です」というのをやってみたんです。宅配便かなと思って出てきてくれた瞬間に、歌い始める。
“ピンポンライブ”と名付けてその活動を始めると、すごく嫌がられて“通報するぞ”と言われるか、めちゃくちゃ喜んでくれるか、だいたいどっちかなんですよ。

写真:ピンポンライブで訪問した家で歌う廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人
── えーっと。そのアグレッシブさを、なんと表現してよいのか(笑)。
廣島:喜んでくれた人にはリクエスト曲を聞いて、その曲が弾けなかったら“練習してきます”と言って帰って、寝る間も惜しんで練習して、次の日また行く。
そしたらこんなに練習してくれたんだってファンになってくれて、そんな繰り返しで、地元に少しずつファンが増えていきました。
──日体大だと周囲は教員や企業に就職した人も多いと思うんですが、比べて不安になることはなかったですか。
廣島:まったくなかったですね(笑)。人と同じことが嫌な、天邪鬼な気質なので。

路上で歌う廣島祐一朗(北総ライノス(HOKUSO RHINOS.EXE))/提供:本人
歌があった
中学生で日本代表に入った男は、靭帯損傷を繰り返してバスケット選手に挫折した。
教員を目指したが、周囲のモチベーションに圧倒された。
しかし、そこに歌があった。
ちなみに、廣島が再びバスケットに出会うのはもう少し先の話。
▶︎【第2話】「お前、バスケやってたのか?」9年ぶりにボールに触れたのはハーレムの路上だった」 に続く
取材・文:槌谷昭人
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