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キットマネージャー・麻生英雄「サッカー界に恩返ししたい」_CROSS DOCUMENTARYテキスト版

カタールW杯まで、4ヵ月を切ったある日。サッカー日本代表は、間近のE-1選手権に備えた合宿に入っていた。練習中の選手たちに、メディアの視線が注がれる。

その陰で、ボール拾いや用具の準備など、自分の仕事を決して目立つことなく、しかし確実に、そして丁寧にこなす男がいた。日本代表チームで誰より長いキャリアを持つ、キットマネージャー・麻生英雄、46歳。

キットマネージャーとは、日本代表を始めとするプロサッカーチームにおいて、練習や試合で使用する道具を準備、管理する者を指して言う。一言でいうと裏方に徹する『なんでも屋』だ。そう聞くと軽く見られてしまいがちだが、いつでも先を見て考え、行動するこのキットマネージャーの存在無くして、チームの円滑なスケジュール進行はあり得ない。選手たちがいかに集中して練習や試合に臨めるかは、キットマネージャーの才覚次第。チーム浮沈のカギを握っていると言っても、決して過言ではないのだ。

麻生が代表チームのスタッフとなったのは、今から25年前。なんと、日本代表が出場した6度のワールドカップすべてに帯同しているのだ。自他共に認める、裏方のスペシャリスト。長きに渡る献身、その情熱の源を探して、代表合宿の日々に密着した。

千葉県幕張。2020年にオープンした、日本サッカー協会のトレーニング施設<JFA夢フィールド>での、E-1選手権に向けた合宿初日。麻生は、練習の3時間前から準備を開始していた。車にぎっしりと詰め込まれた荷物を、彼はたった一人で、ロッカールームに運び込んでいる。選手が飲む、水ひとつとっても、常温と冷蔵の二種類を用意する徹底ぶり。

ロッカールームの支度が終わると、すぐにグラウンドに出て、練習で使う用具を整えていく。もちろん、たった一人での仕事だ。40個はあるボールの空気入れは、毎日、ひとつひとつ空気圧を測り、決められた値になるよう調整しているという。外はすでに炎天下。膨大な仕事を手際よく、丁寧にこなしていく麻生。他のスタッフが到着する頃には、すべての準備を終わらせていた。

「遠征に出れば、グラウンドをお借りして、終われば撤収して、また違うグラウンドに移動、この繰り返しになると、手際の良さはひとつの大きなポイントなんですよ」

先ほどのロッカールームに戻ると、壁に飾られる写真の一枚を指さして、麻生は笑った。

「これ、僕です」

18年前、黄金世代と呼ばれた選手達が、中国で開催されたアジアカップで、連覇を成し遂げた際の記念の一枚。一番端で、麻生が今の自分とシンクロするように、満面の笑みを湛えていた。代表のキットマネージャーになって25年。海外での大会や遠征にも帯同し、これまで50か国以上の旅を共にしてきた麻生。その間の代表チームすべてで、記念の一枚を持っているのは、ちょっとした自慢だ。

仕事をしていて、楽しいと感じる瞬間を尋ねると、彼は即答した。

「試合に勝った時に尽きますよ」

練習が始まると、麻生は他のスタッフと共に、ボール拾いに回る。選手とスタッフの一体感を生むために、25年間続ける仕事における日課だ。ふとフィールドを眺めると、自分が代表チームのスタッフになった頃には、まだ生まれていなかった選手も数多い。コーチの中には、かつて代表チームの選手として、麻生の献身を受けていた者もいる。次々と人が入れ替わっていくのは当然のこと。その中で変わらないのは、麻生の存在だけだ。

練習が終わると、麻生は洗濯に取り掛かる。選手とコーチングスタッフなど、およそ50人分、数時間がかりの重労働だ。ユニフォームは、翌日も気持ちよく使えるよう、乾燥機にかけた後、ひとつひとつ丁寧に畳む。1日中、地道な作業を黙々とこなす役割。

「イメージとのギャップがあるんでしょうか・・・ それで辞めていく人も多いんですよね・・・」

ちょっと寂しそうに語る麻生だが、本人はつらいと感じたことがほとんどないと言う。そんな彼に、キットマネージャーとしての原点を尋ねると、後日、ある場所に連れて行ってくれた—

横浜にある、古ぼけた設備の残るグラウンド。

ここはかつて、今は無いJリーグクラブの拠点だった。横浜フリューゲルス。攻撃的なサッカーで人気を集めたものの、メインスポンサーの撤退により、横浜マリノスに吸収され消滅した、悲劇のチーム。麻生は大学浪人中、たまたまこのチームの求人広告を見つけたことで、アシスタントマネージャーとして採用された。

当時のまま残るクラブハウスで、麻生は思い出に浸る。実は彼にサッカー経験は無い。右も左もわからないまま、練習を手伝っていたという。

「選手に『インナー取って』て言われて、『インナーって何ですか?』って聞き直してたくらいですから」

それでも、毎日無我夢中で、どんな雑用も厭わず働いた。すると、よほど肌に合ったのか、麻生は大学受験をあきらめ、翌年の春には、同世代の新入団選手と共に入寮していた。

「若さですよね。すべてが新しい経験で、楽しいしかなかった。社会人としてのイロハも全部ここで教えてもらいました」

そんな麻生を、選手たちもチームの一員として認めていく。後に、麻生が日本代表のスタッフとなり、フリューゲルスを離れる際には、選手達が試合前の写真撮影に呼び込んでくれた。その一枚を、今も大切にしている。当時のチームのエース、前園真聖の隣で、自分がチームと一体になっていることを感じられたと言う。キットマネージャーが、チームの戦力のひとつに成り得ることを確信したのだ。

麻生は懐かしそうに、思い出のグラウンドを歩く。ここで知った、人のために働く喜び。それが今も、麻生の支えとなっている。

7月19日、茨城県カシマスタジアム。E-1選手権の初戦当日。

麻生は香港戦を前に、早くから会場入りし、選手を迎える準備を進めていた。特別な事をするのではない。選手が集中して試合に臨めるように、いつもの仕事をいつもの通り、確実に、丁寧にこなす。そして準備万端整ったところへ、選手を乗せたバスが到着した—

【E-1選手権初戦 日本6-0香港】

試合終了後、麻生がハンドルを握る、荷物満載の車両が会場を後にしたのは、夜10時を過ぎた頃。6対0の大勝。しかも3人の若手選手が代表初ゴールを決めた。実り多い試合に、麻生も少し興奮気味だ。

「チームスポーツなので、勝利に向かって、何をやっていくにもみんなで分かち合う、スタッフも同じ気持ちで戦っているんです」

ピッチの外からのアシストが、わずかでも勝利に貢献できたなら、それは麻生にとっても至福の瞬間なのだ。

東京に戻ると、麻生はすぐに真夜中の洗濯に勤しむ。8月には47歳になるが、夢は60を過ぎても現場で働き続けることだ。

「僕はサッカー界に求人誌で入り、一から学び、成長させてもらった人間です。後進の育成も含めて、サッカーに対して熱意があるのに、きっかけをつかめない若い人のために、チャンスを作れたらと思っています。少しでもサッカー界に恩返ししたいんです」

気がつけば、午前1時。選手と共に、喜びも悔しさも、全てを分かち合う。

この先も、キットマネージャー・麻生英雄の献身が、チームに勝利を呼び寄せるだろう。

TEXT/小此木聡(放送作家)

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