【レジェンドの素顔10】“教育ママ”の厳しく熱い指導に幼少期のコナーズは従うが1つの信念は曲げなかった│前編<SMASH>
大一番におけるスーパースターたちの大胆さや小心をのぞいていくシリーズ「レジェンドの素顔」。前回に引き続き、ジミー・コナーズについて取り上げよう。
過去、家庭環境に恵まれてテニスプレーヤーへの道を選んだ人は多い。特に、アメリカ生まれのプレーヤーにその例は顕著にみられる。ジミー・コナーズもまた、そうした“幸運組”の一人である。
しかし、彼を導いたのは父親でもなく、母親だった。ジミーは母親によって鍛えられ、あるいは、母親によって手なづけられていったのだ。そのことは、ジミーの成長にどのような光と影をもたらしたのだろうか。
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ジミー・コナーズの少年期を辿った場合、母親グロリアの存在の大きさを第一に挙げなければならない。グロリアの引いた熱いレールの上をジミーは突っ走った。俗にいえば、グロリアは典型的な「教育ママ」だったのである。
ただし、日本の「教育ママ」のほとんどは息子を良い大学に入れることだけに心血を注ぐが、グロリアの場合は方向が違った。彼女は息子がテニス史に残るプレーヤーになるためなら、どんな犠牲を払ってもいいとさえ考えていた。実際、払った犠牲は少なくなかった。
しかし、グロリアは恵まれていた。息子ジミーは、彼女の予想をはるかに上まわる能力の持ち主だったのだから——。そんな幸運な気分に浸れる母親など、万に一人もいないだろう。
母親になら、まるで飼い慣らされた犬のように従順
ジミーは、1952年にイリノイ州のセントルイスで生まれた。父親は、通行料金所の係官をしていて、余暇にはゴルフを楽しんだが、テニスには無頓着だった。そのため、ジミーのテニス人生には、まったく顔を出してこない。母親のグロリアとは実に対照的な存在だ。
グロリアは、男子が生まれたらぜひテニスプレーヤーにさせようと考えていたので、ジミーの誕生をとても喜んだ。そして、自らコーチの役目を買って出た。
彼女のテニス歴は古い。ジュニア時代には全米で13位になっている。1940年代にはちょっとは名の知れたプロのプレーヤーだったし、レッスンプロとしてのキャリアも長かった。
コート上のグロリアは、いつも厳しかった。ジミーが甘いボールを返そうものなら、容赦なく幼い彼の顔面を狙い打ちした。
「ジミー、いったんコートに入れば、母親だってこれくらいのことをするんだよ!」
そう言って、グロリアはジミーをにらみつけた。ジミーは泣きながらボールを追いかけたことが何度もあった。
実に不思議な親子である。
母親は母性愛のかけらも見せず、父親の役目まで一手に引き受けていた。こういう場合、往々にして息子は反抗する。しかし、ジミーときたら、まるで飼い慣らされた犬のように従順なのである。
ジミーは、ハードなテニスレッスンの中で父親の不在を強く感じ、母親のヒステリックな愛情を享受するようになっていた。成長する過程で、母親への依存度がますます高まっていったのだ。
ジミーのオ能は千金に値すると思い始めた
そんなコナーズが一度だけ、グロリアに激しく抵抗したことがある。
コナーズは少年の頃、やせて非力だった。力不足を補うため、バックハンドは両手で打っていた。これをグロリアは快く思っていなかった。大成するには片手打ちであるべきだと考えていたのだ。
この当時——1960年代——のテニスの指導者層は、概して両手打ちを好ましく思っていなかった。両手打ちのプレーヤーで成功した選手がいないというのが、その理由だった。ジミーだけにかぎらず、クリス・エバートもピヨン・ポルグも周囲の者たちに両手打ちを反対されている。
しかし、子どもだった彼ら(あるいは彼女)にとって、両手打ちは実に都合の良い打ち方だった。この打法を使えば、これまでネットを越えなかったボールも楽にネットを越える。つまり、非力を補えるわけだ。ボルグは当時(11歳)のことを後にこう語っている。
「周囲の大人たちは、両手打ちのバックハンドは間違っていると言って、無理に変えさせようとした。しかし、私は両手打ちの方が打ちやすかったので、アドバイスにまったく耳を貸さなかった。しまいに大人たちはカンカンに怒ってしまった。仕方がないので『もう少ししたら、片手打ちに変えるよ』とその場をとりつくろったが、心の中ではガンとして変える気などなかった」。ボルグのこのガンコさが、周知のとおり、後に大きな実を結ぶことになる。
ジミーも、この一点だけは、自分の信念を曲げなかった。グロリアは「片手打ちにすべきよ」とウンザリするほどしつこく言ってきたが、ジミーは従おうとしなかった。最後にはグロリアも根負けし、コナーズの希望を認めた。
1960年代に、大成した選手がいないという理由で白眼視された両手打ちバックハンドも、1970年代には、ジミー、エバート、ボルグと3人もの名選手を生んだ。1980年代ではむしろ、大成するからという理由でコーチが両手打ちを勧めるほどだ。テニスの打法は大きく変貌してきたのだ。
ところで、コナーズの両手打ちを容認したグロリアは、どうせやるなら両手打ちを徹底的に極めさせてあげたいと考えた。———専門のコーチにつけよう。そう考えたグロリアは、コナーズを連れてカリフォルニアに行くことにした。両手打ちの先駆者でもあるパンチョ・セグラのコーチを受けさせるためである。
グロリアの大胆な点は、夫ともう一人の息子を置いて、ジミーと共に旅立ってしまうことだ。家庭崩壊につながるかもしれなかった。それでも、グロリアは自分の息子に賭けてみたかった。親のひいき眼かもしれないが、ジミーのオ能は千金に値すると思い始めたのである。
もっとも、セグラは両手打ちの先駆者といっても、バックハンドは片手打ちだった。両手打ちだったのはフォアハンドの方だ。つまり、ジミーとはまるで逆なのである。
グロリアにすれば、他に適任がいないと考えたのだろう。フォアとバックの違いこそあれ、両手打ちに変わりはない。当時の情勢(両手打ちのコーチが少なかった)を考えれば、背に腹はかえられないと思ったのだろう。
~~続く~~
文●立原修造
※スマッシュ1987年5月号から抜粋・再編集
【PHOTO】ボルグ、コナーズ、エドバーグetc…伝説の王者たちの希少な分解写真/Vol.1
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