75分の中断後に見えたスキ “九州の若鷹”がマッチ世界王者に引導を渡した5番アイアン【名勝負ものがたり】 | ゴルフのポータルサイトALBA.Net
“九州の若鷹”がマッチ世界王者に制した物語(撮影:鈴木健夫)
歳月が流れても、語り継がれる戦いがある。役者や舞台、筋書きはもちろんのこと、芝や空の色、風の音に至るまでの鮮やかな記憶。かたずを飲んで見守る人の息づかいや、その後の喝采まで含めた名勝負の舞台裏が、関わった人の証言で、よみがえる。
切り返しが早いリー・トレビノは「ナイスおっちゃんスイング」【連続写真】
「米ツアーがそのまま輸入された」と称されたほど、豪華な顔ぶれが揃ったのが、1979年の太平洋クラブマスターズだった。
“新帝王”トム・ワトソン、“スーパー・メックス”リー・トレビノ、“ジーン・ザ・マシーン”ジーン・リトラー、“ドクター”ギル・モーガン…。そこに割って入ったのが当時28歳、伸び盛りの鈴木規夫だった。
1976年、ロイヤルバークデールで行われた全英オープンではマンデートーナメントから出場し、本選の初日にトップに立ち“スペインの星”セベ・バレステロスと激しく競り合うなどして10位のフィニッシュ。「スズキはバイクだけじゃない」と現地で評価され、心身ともに充実の時を迎えていた。
3日目を終え、その鈴木とトータル7アンダーで首位に並んだのは同年代のビル・ロジャース。鈴木は1951年10月12日、ロジャースは同年9月10日生まれで誕生日もわずか1カ月違いだった。ロジャースもまた前年の米ツアー、ボブ・ホープ・デザートクラシックでツアー初優勝を飾ると、この年大きく飛躍して平均ストロークは70.76。賞金王とバードントロフィー(平均ストローク第1位)の2冠を3年連続して続けていたワトソン(70.27)に次いで2位に入っていた。また、英国ウエントワースクラブで行われた世界マッチプレー選手権決勝では青木功の2連覇を阻み、見事優勝。この大会にもやる気満々で乗り込んできていた。
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