【ドラフト番外編】ドラフト外からNBAスターに上り詰めた、諦めの悪い男たち【NBA講座vol.9】

人の才能というものは、いつ開花するかわからない。早い人もいれば遅咲きのスターとして活躍する選手もいる。いずれにせよ人並み以上の努力を積み重ねて地位を築いていることは間違いない。

NBAドラフトは、言ってしまえば「開花」した人間をピックアップする場所と言っても過言ではない。今回のドラフト1位のクーパー・フラッグをはじめ、歴代ドラ1の選手を見ても一目瞭然である。ただし、ドラフト1位で選出されたものの、全くNBAで通用しなかった選手もいれば、逆にドラフト指名されなかった(開花していなかった)選手も多数いる。

今回の記事では、ドラフト指名されなかったけれどNBAで活躍した「遅咲きのスター」たちを紹介したい。ジョーダンの時代で止まっているあなたが、現代NBAを見るキッカケになれれば非常に嬉しいが、NBAを知らない方にもぜひ読んでほしい。そんなドラマがここにある。

前回記事:
NBAドラフトの仕組みとは?高卒でNBAに入れないって本当?ドラフトで大豊作と言われた年は?【NBA講座vol.8】
https://ssn.supersports.com/basketball/nba_draft_vol1/

NBAドラフトの仕組み

前回の記事の通り、NBAドラフトは、NBAの30チームが2名ずつ選手を指名して獲得できる制度である。よって、NBAドラフトにエントリーした全員の中からたった「60名」しか選ばれることはない。ちなみに、今年のドラフトでは106名がエントリーしていたため、「46名」がドラフトで名前を呼ばれなかったこととなる。

今年の46名然り過去のドラフトで指名されなかった選手たちは、ドラフトで指名されなかったからといって、今後NBAに絶対に入れないわけではない。まずはNBAの下部リーグである「Gリーグ」に所属することを目指し、NBAが主催する「サマーリーグ」にエントリーしてプレーすることが多い。そのサマーリーグで活躍しチームのスカウトの目に止まる活躍ができたならば、何かしらの契約を掴めるかもしれない。
現在B.LEAGUEの千葉ジェッツに所属する渡邊雄太選手も、過去にこのサマーリーグからチャンスを掴んで2018年にメンフィス・グリズリーズと2WAY契約を結び(グリズリーズと、Gリーグに所属するグリズリーズの下部チーム「メンフィス・ハッスル」の2チームを行き来する契約)、その後トロント・ラプターズで本契約を勝ち取りブルックリン・ネッツで活躍したというストーリーがある。

ブルックリン・ネッツで活躍した渡邊雄太選手のハイライト

このように、ドラフトでピックアップされなくてもNBAで結果を残している遅咲き選手はたくさんいる。そんな遅咲き選手たちのドラマを紹介していきたい。

現役編:ドラフト外からNBA入りして活躍する選手

TJ・マッコネル/インディアナ・ペイサーズ

185cm 86kgと、NBA選手にしては非常に小柄な選手である。NBAどころかB.LEAGUEでも小柄な分類であろう。ただ、今年のNBA FINALSを見ていた人であれば、彼の縦横無尽な活躍に感動した人も少なくないはず。日本では一部のファンから試合の流れを変えられる存在であるという意味で、宇都宮ブレックスの比江島慎選手とかけて「比江島マコネル」とニックネームをつけている人もいたほどだ。

マッコネルはそもそも名門のアリゾナ大学出身。大学時代もスターティングメンバーとして活躍したものの、マッコネルは試合の流れを変える力やゴール周辺のシュートが非常に得意な「堅実なガード」である一方で、低身長の選手にマストで求められるスリーポイントの確率が低かった。この数字がどうしてもネックになってしまい、アリゾナ大学を卒業した直後の2015年のドラフトでは、どのチームからも声がかからなかった。

マッコネルはもちろんここで諦めることはなかった。サマーリーグに参加をし自分の実力を証明した結果、フィラデルフィア・76ersのフレッド・ブラウンHCの目に止まったことで「練習生契約」を結んだ。練習生契約を結んだ状態でNBAのプレシーズンを迎え、引き続き活躍をしたことで本契約を勝ち取り15人の中の1人として名を連ねた。

NBAにはさまざまなタイプのポイントガードがいるが、マッコネルの場合は早い展開を作りディフェンスとのギャップを作ること・見つけることが非常に得意である。流れが悪い時は自分でシュートを決められる力もある。スリーポイントは今も決して長所とは言えないが、それでも堅実なプレーでチームを引っ張ってくれることを評価するコーチは少なくない。自分のできることや長所を徹底的に伸ばすことを貫くマッコネルは「小さくてもやれる」ことを証明した選手であり、日本人選手が目指すべき背中かもしれない。

今年のNBA FINALSでエースのハリバートンの代役を務め活躍したマッコネル

セス・カリー/シャーロット・ホーネッツ

「カリー」という名前を聞いたことがある人はピンと来るかもしれないが、「セス・カリー」は、ゴールデンステイト・ウォリアーズに所属するスーパースターのステフェン・カリーの3つ下の弟である。
セスは前途のマッコネルと同じ185cmとNBAでは小柄。しかも正ポジションはポイントガードではなくシューティングガードである。セスがポイントガードができないわけではないが、シューターとして起用した方が彼は伸び伸び活躍できる。このポジションの違いは非常に大きい。チーム目線で考えた時に、190cmのポイントガードと、シューティングガードのセスを同時に起用した場合、平均身長がどうしても下がってしまう。平均身長2mのNBAでは、小さい選手はディフェンスで確実に狙われてしまうのだ。よって、セスは「シューターとしては優秀だけど使いにくい選手」という評価になってしまった。名門デューク大学を卒業した2013年にドラフトで指名が来なかったのは、この辺りが原因である。

NBAドラフトで指名されなかった2013年の夏。セスは兄のステフェンがいるゴールデンステイト・ウォリアーズのキャンプに参加するも解雇、そのあとも10日間契約などを他チームと結びNBAデビューはしたものの、数試合出場しただけで解雇など、苦しいプロ生活が始まった。
ルーキーイヤーの2013年、2年目の2014年は非常に苦しかったが、諦めない姿勢がついに身を結ぶ。3年目の夏のサマーリーグで平均得点24.4得点を記録し得点王に輝いたことで一躍注目株に躍り出る。数々のチームが「セスを獲得したい」と手を挙げる中で、セスはサクラメント・キングスと契約を結んだ。ここからはさまざまなチームを転々とするキャリアであるが、行く先々でしっかりと「シュートを決めて得点する」という自分の役割を全うし続けていることでNBAで生き残っている。

ちなみに、セスのキャリアハイの3P成功率は2024-25シーズンの45.6%であり、キャリア平均は43.3%。この数字は、兄のステフェンより約1%ほどずつであるが高い記録である(ステフェンはキャリアハイは2011-12シーズンの45.5%、キャリア平均は42.3%)。”シューターとして”は、セスの方が上かもしれないという声もあるが、セスはこれからも兄の背中を追い続ける。

サムネの左がセス・カリー。動画は兄弟対決となった試合。いつか同じチームでプレーするところも見てみたい

レジェンド編:ドラフト外からNBA入りして活躍する選手

ジョン・スタークス/ニューヨーク・ニックス

ニックスのレジェンドと呼ばれる選手であり90年代のNBAを代表する選手。神様:マイケル・ジョーダンとは何度も試合で戦った。ハードなディフェンスが代名詞であり、ニックスファンからは「ニックスのHeart & Soul」とも呼ばれていた。

ここまでの紹介だけ見るとドラフト入りしていてもおかしくないと思うが、スタークスは簡単にいうと「ヤンチャ」であることでスタートダッシュに遅れたタイプである。

そもそもスタークスが3歳の時に父親が蒸発してしまったため、かなり多くの引っ越しを経験した。8人家族だったこともあり、高校時代は新聞販売の積み込みのバイトをしながらストリートでバスケをしていた。「ストリートが自分の生きる場所であった」ともインタビューで語っている。ちなみに、高校時代はコーチのやり方が合わないということで、バスケ部でプレーしたのはたった1年間だけである。
大学進学後に再びバスケ部に入部するが、練習生という立場に納得ができず転校。転校先でプレーする機会を得たもののマリファナや窃盗などのヤンチャを働いて刑務所送り&退学処分に。その後はスーパーで働きながら日本でいう短大に通っていた際に、とある大会でNBA選手たちと一緒にプレーする機会をたまたま得る。後にマイケル・ジョーダンの相棒にもなるデニス・ロッドマンを相手に27得点を記録したことが伝説的に今も語り継がれているが、その時の活躍をキッカケにNBAの目に留まることとなった。

ただ、スタークスの場合は明確に「ポジション」を与えられたことがなかったこと、そして「チームプレー」を真剣に学んだことがなかったことで、スキルは素晴らしいとされながらもドラフトでは指名をされなかった。ドラフト外でルーキーの年にNBA入りはするものの、出場機会に恵まれずシーズン終了後に即解雇。その後は中国リーグなどで活躍するもののレフェリーを突き飛ばすなど暴行を加えたことで、悪目立ちをしてしまっていた。

その後1990年に奇跡的にニューヨーク・ニックスがスタークスを獲得するが、獲得した目的は「練習要員」であった。練習要員として全く期待されていなかったことも相まって、ヤンチャなスタークスは「どうせ契約はないんだから派手なことやって終わろう」と激しいプレーでアピールをした。奇跡は続き、同じポジションで怪我人が出たことで「練習要員」から「ローテーションの1人」としてチャンスを得ることになったスタークスは、ハングリー精神を全面に出したディフェンスで一気にコーチ陣の信頼を勝ち取る。当時HCをしていたパット・ライリーの「激しいディフェンスを軸にしたチーム」の構想にピッタリとハマったスタークスは、翌年ついにニックスと4年契約を結んだ。

一気に中心選手へと上り詰めたスタークスではあったが、ヤンチャぶりは相変わらず。トラブルメーカーとしてレフェリーに文句を言ってテクニカルファウルをもらうことは日常茶飯事であり、調子が良い日には相手選手にラリアットを食らわせることもしばしば。ただ、ヤンチャな側面がありながらもコート上で闘志を剥き出しにしてガムシャラにプレーする姿がニューヨークのファンに刺さり、加えてオフェンスでも爆発力があったことでスコアリーダーとして活躍する試合もあった。93-94シーズンにはNBA FINALS進出にも大きく貢献したこともあり、スタークスは多くのニューヨーカーのお気に入りになっていった。

FINALSに進出した94年にはオールスターに選ばれ、97年にはシックスマン賞を受賞したが、同時期に大活躍していたアラン・ヒューストンの加入でプレータイムは減り、翌年にはニックスから放出されてしまう。その後は徐々に輝きを失っていったが、今も昔もスタークスはニューヨークで多くの輝きを放ったドラフト外のスターとして、未だ人々の胸に残り続けている存在であることは間違いない。

一番最初のプレーが、ジョーダンの上から決めたことで伝説となった「ザ・ダンク」

ベン・ウォーレス/デトロイト・ピストンズ

最後に。ベン・ウォーレスはドラフト外からNBA入りした数々の選手の中でも一番成功した選手であると私は思う。2004年にはNBAチャンピオンに輝き、オールスターには4回選出、最優秀守備選手に4回選出、リバウンド王を2回、ブロック王に1回などなど、あまりにも輝かしい功績を残したからである。さらに、ベンがつけていた背番号の「3」は、ピストンズで永久欠番にもなっている。

11人兄弟の10番目という大家族の末っ子に生まれたベンは、幼少期からバスケに打ち込んでいたものの兄弟の中では「リバウンド係」だった。さらに、事故にあってしまったことで手首が外れやすくなってしまい、シュートを得意になることを早々に諦めたという記事もある(シュートを打つために手首のスナップを効かせると、手首が外れてしまうそう)。それでもベンはバスケが大好きだった。

「リバウンド係」をひたすらやっていたことで、彼はとにかくリバウンドへの嗅覚が人並み以上にあった(後にこれが最大の武器になる)。嗅覚というのは、味方が放ったシュートがどの位置に外れるかを予測できる能力、という意味。加えて高い身体能力を生かして良いポジションを取ること(スクリーンアウト)も非常に得意だったため、極端なようで本当に「リバウンドだけ」で生き残った。

ただ、当然NBAは甘くない。ベンはリバウンダーとしてのスキルは申し分ないものの、名門大学出身であるわけでもないし「リバウンドだけ」の選手だったし、ましてセンターなのに206cmしか身長がなかった。当時のNBAのセンターは、216cm・120kgのシャキール・オニールや、229cmのヤオ・ミンをはじめとするビッグマンがまだまだ健在で「いくら嗅覚があったとしても体格差で敵うわけがない」とされていた。だからNBAドラフトで彼の名前が呼ばれることはなかった。もちろん、この時もNBA選手になることは諦めず、ドラフトで名前が呼ばれなかったその日も筋トレをしにジムへ行ったという逸話もある。

ルーキーイヤーをイタリアで過ごしたあと、ワシントン・ウィザーズがインサイドの強化に踏み切るためにベンをNBAに呼んだが、ここからがNBAキャリアのスタート。その時にはリバウンドだけではなく、高いジャンプ力を生かしたブロックも非常に得意となっていたため、リバウンダーではなく「ディフェンダー」としての花が咲き始めている頃だった。そして2000年にデトロイト・ピストンズに移籍して開花する。当時のヘッドコーチのラリー・ブラウンは、システマチックなバスケットボールを好むコーチであったため、逆にこれがベンを生かした。オフェンスはオフェンスが得意な選手に任せ、ベンはゴール下の守護神として君臨したのだ。この結果、2003-04シーズンにはシャキール・オニールとコービー・ブライアント率いるロサンゼルス・レイカーズをNBA FINALSで破って優勝に導くことになるが、優勝を決めたGAME.5では18得点22リバウンドという脅威的な記録を残した。ちなみに18得点はオフェンスリバウンドからのチップやダンクのみで、ジャンプシュートはもちろん一つもない。

ベンのブロックだけを集めたハイライト

また、この頃ベンは、少しでも自分を大きく見せようと髪型をアフロにしていた(アフロの高さで身長を測っていたという噂があり、本当は203cmしかなかったという話もある)。このアフロヘアーがデトロイトのファンの間では非常に人気となり、アフロのウィッグが飛ぶように売れた。ホームゲームではアフロをピストンズの赤と青に染めたウィッグを被ったファンで溢れていた試合もあったとのことである。

翌年もNBA FINALSに進出するものの、残念ながらサンアントニオ・スパーズに敗れた。敗れた後に、ここまでのピストンズを築いてきたラリー・ブラウンHCが退任。新たにフリップ・サンダースというHCが加入したが、サンダースはオフェンスを重視するコーチだったこともあり、ベンは徐々に影を潜めてしまった。チーム内で役割を全うできなくなったベンは2006年にシカゴ・ブルズへ移籍するも、この後は怪我の影響で徐々に持ち前の身体能力も失われていき、得意のリバウンドも取れなくなっていく。ブルズの後もチームを転々とすることになるが、2009年に再びデトロイトへ戻ることを決め、そして2012年に引退を発表してキャリアに幕を閉じた。

引退後、ベンはドラフト指名されずにNBA入りした選手として、史上初めて殿堂入りの選手となった。過去、最優秀守備選手賞を4度受賞したのはベンともう1人だけで、ドラフト外でオールスターのスタメン出場をしたのは後にも先にもベンだけ。殿堂入りのセレモニーで、ベンの恩師とも言えるラリー・ブラウンは「ベンは自分の才能を最大限に発揮した。オフェンスのハイライトしか見ない全てのバスケ選手にとって偉大な模範になった」と語り、ベンの殿堂入りを誰よりも喜んだ。

殿堂入りを祝してピストンズが制作したベンのプロモーションビデオ