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東京五輪 レスリング金メダリスト・須崎優衣「自分の人生は自分で決める」_CROSS DOCUMENTARYテキスト版

4月のある日、新聞記事がレスリングアジア選手権での須崎優衣の優勝を報じた。

東京オリンピック、レスリング女子50㎏級金メダリスト・須崎優衣。

3年後の今、所属の総合バルブメーカー【キッツ】本社での講演で、彼女はアジア選手権優勝の報告とともに高らかに宣言する。

「絶対にオリンピック2連覇、パリでは最高の勝ち方で金メダルを獲得したいと思います」

スーツを身にまとった彼女は、小柄で、誰からも可憐な印象を受けるだろう。

だがひと度マットに立てば、高速タックルから繰り出される技で、相手を圧倒! 特に外国人選手には無類の強さを発揮し、2014年の国際大会デビューから無敗を誇っている。

「(パリ五輪代表が決まって)ここからが本当のスタートラインだと思っています。今も自分の(技の)引き出しを増やしているので、新しい、進化した須崎優衣をお見せすると約束します」

 

 

彼女の強さに疑問を抱く者はいないだろう。本人にもその自覚はあるだろう。

だが、須崎には、いささかの慢心もない。それは、彼女がこれまでのレスリング人生で、イバラの道を歩んできたからに他ならない。

 

その日、ジャージ姿の須崎が、母校・早稲田大学レスリング部の練習場に現れた。

昭和6年、八田一朗等により創部されたここは、日本レスリング界発祥の場ともいわれている。

須崎はそのマットでトップアスリートとしての礎を築き、社会人となった今も、男子選手に混じって汗を流しているのだ。

「男子選手と練習できることが大きな理由で、自分より力が強かったり、うまかったり、そういった選手にどうやって勝つかを考えながらできるので、すごく良い練習をさせていただいています」

そう語る彼女の背後の壁には、無数の新旧部員の名札がかかっている。その中には、父・康弘さん、姉・麻衣さんの名札も。須崎家のレスリングの原点が、ここ早稲田大学なのだ。

 

 

須崎は父・康弘さんの影響で、小学1年生からレスリングを始めた。

「水泳、ピアノ、いろいろ習い事をやっていたんですけど、レスリングが一番楽しくて、のめり込んでやっていましたね」

男の子相手に一歩も引かずに攻める、少女時代の須崎の試合映像が今も残っている。

思えばこのころから、攻撃的なレスリングが持ち味だった。

小学3年生で全国大会初優勝。さらに5年生でも優勝を果たし、ナショナルトレーニングセンターの合宿へ招待される。これが彼女の人生を大きく変えた。

「初めて国内の代表が集まる場所に行かせてもらって、そこで練習したときに、オリンピックで金メダルを取れるような選手になりたいって、強く意識するようになりました」

中学生になると、全国中学選手権を3連覇。2年生のとき、全国の有望選手が集まるJOCエリートアカデミーに入校するチャンスが巡ってきた。

だが両親は、娘を寮生活に送り出すことを躊躇する。まだ手放したくなかったのだ。

それでも決断した理由は、娘・優衣の決意に他ならなかった。父・康弘さんは語る。

「優衣が小学四年生のときの、先生との交換日記のようなものを見た際に、『自分の人生は自分で決める』って書かれてたんですよ。その思いをずっと抱き続けているわけで……。だから、ダメだったら戻って来いよ、という気持ちで送り出しました」

 

JOCエリートアカデミーでは、第二の母とも呼べる、恩師との出会いがあった。アカデミーのコーチを務めていた、日本人女性初のレスリング世界選手権チャンピオン、吉村祥子さんだ。彼女の存在なくして、須崎はその後訪れる、レスリング人生最大の危機を乗り越えることはできなかっただろう。

その危機こそ、2021年東京オリンピック代表決定までのイバラの道だった。

 

 

吉村コーチの指導の下、攻め一辺倒のレスリングに、攻守のバランスが加わった須崎。2014年の初めての国際試合を皮切りに、彼女はいつしか女子50㎏級のエースへと成長を遂げる。

東京オリンピックへ向け、視界良好。誰もが疑わなかった。ところが、優勝すれば代表内定となる一戦に落とし穴が待っていた。当時の一番のライバル・入江ゆき選手に敗れ、オリンピック出場が絶望的となってしまったのだ。

「東京で(オリンピックが)開催されるって決まってから7年間ずっと、本当に毎日、『私が出場して、絶対に金メダルを取る』というふうに思って生きてきたので、その夢がなくなってしまった瞬間は、本当にどん底でした。これから先、何のために生きていけばいいんだろうっていうくらい落ち込みました」

エースですら、失意のどん底に突き堕とされる。それほどまでに、日本の女子レスリングのレベルは高かった。当時は世界チャンピオンになるより、国内チャンピオンになるほうが難しいとさえいわれていたのだ。

須崎に勝利したことで世界選手権の代表になった入江は、そこで優勝すれば内定が確定に変わる。国内チャンピオンが国際大会で負けるとは考えづらく、須崎の絶望が晴れることはなかった。

そんな苦境の中、出会いからずっと須崎を支えてきた吉村コーチだけは、一縷の望みを捨てていなかった。彼女に練習再開を促したのだ。

「たぶん(須崎が代表になる可能性は)1パーセントあるかないかの状況でしたけど、この世に絶対はないんです。何かが起きたときに、準備をしていなかったことほど悔しいものはないと彼女に言い聞かせました」

その言葉に奮起したのか、須崎は一心不乱、マットで汗を流し続ける。

1パーセントにも満たない奇跡が起きた。

入江選手が世界選手権でまさかの敗北を喫し、代表内定を確定に変えることができなかった。つまり、代表争いが白紙に戻ったのだ。

「もう一度、東京オリンピックを目指して戦えるっていうことが、本当にどれだけありがたいことか、どれだけ私の生き甲斐だったのかを感じて、絶対に私が(代表の座を)つかむっていう気持ちで臨みました」

それが2019年12月の全日本選手権だった。

須崎は準決勝でリオオリンピック金メダリストの登坂絵莉を破ると、決勝で再び入江ゆきと対峙する。

意地と意地のぶつかり合いの果て。須崎は2対1のポイント判定で勝利! 大逆転で東京オリンピック代表の座を掴んだのである。

東京オリンピックレスリング女子50㎏級の結果は承知のとおり、圧倒的な強さを見せつけた須崎は、全試合1ポイントも失わないテクニカルフォール勝ちで、悲願の金メダルを獲得!

「いろいろなことがあって、苦しい道のりでしたけど、ずっと夢見てきた瞬間だったので、本当に生きてきた中で一番嬉しい瞬間でした」

そして2024年現在、須崎優衣はパリオリンピック代表として、連覇に挑もうとしている。東京の歓喜から3年、国際大会では一試合も落とさず。国内でも無敵の状態だ。

それでも、日々、早稲田レスリング部のマットで自分を追い込み、持ち味の攻撃力を磨いている。この世に絶対がないことを、骨身に染みて感じているからだろう。

男子選手相手に、高速タックルで、その懐に飛び込んでいく!

 

練習の休憩中、須崎はパリでかなえたい、新たな夢について教えてくれた。それは、東京大会では物理的に不可能な夢だった。

「パリは有観客なので、家族や応援してくれる方々が、大勢会場に来てくださる予定なんです。そこで金メダルを取る瞬間を直接お届けして、最高の恩返しがしたいなって思ってるんです」

 

 

前哨戦となる4月のアジア選手権で優勝し、国際大会での連勝を94にまで伸ばした須崎は、盤石の体制でパリへと乗り込む。

オリンピック連覇の瞬間を、応援してくれる人たちとともに、そして無償の愛で支えてくれた両親と共に、会場で喜びを分かち合いたい。

休憩を終え、須崎はマットに戻っていく。その目が、本番さながらに鋭く光った。

運命の夏に向かって、彼女はスパートをかける。
 

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