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私が銀行を辞め、サッカー界に戻ったワケ。池西希(V・ファーレン長崎)

「やはりサッカーは自分の中で大きな存在で。もう一度サッカーと真剣に向き合いたいと思ったこと。これが、サッカー界で働くことに関心を持ったきっかけです。」

( V・ファーレン長崎アカデミー課 池西希 )

現在株式会社V・ファーレン長崎のアカデミー課で幅広くユースの業務に携わる池西希(いけにし・のぞみ)氏は、プロサッカー選手への道を諦め、一度は銀行員の道へ。かつて「サッカーには区切りをつけた」と話した彼がなぜ再び、支える立場としてサッカー界へ転職したのでしょうか。クラブスタッフとしてのビジョンや、今の仕事の魅力についてお聞きしました。

(取材日:2020年8月17日 聞き手:竹中玲央奈)

ビジネス思考ができるクラブ人材へ

早稲田大学を卒業して、銀行員として社会人生活をスタートして5年目。まかせていただける仕事も増えてきて、「このままで良いのか」「この仕事は自分ではなくてもできるのではないか」と、自問自答するようになりました。

大学を卒業してからも、会社のサッカー部で活動を続けていて、やはりサッカーは自分の中で大きな存在で。もう一度サッカーと真剣に向き合いたいと思ったこと。これが、サッカー界で働くことに関心を持ったきっかけです。

私の強みはサッカーの現場を経験していることと、5年間とはいえ異なるフィールドでのビジネス経験があることです。

だからこそ私は、ビジネス的な感覚を持ち合わせつつも、現場の思いがしっかりと伝えられる人間になりたいなと。役職でいうとするなら、ゼネラルマネージャーや強化部長、アカデミーダイレクターなど、現場に近いフロントですね。

このように考えられるようになったのも、早稲田大学サッカー部時代の経験がベースにありつつ、社会人になってから通った公益財団法人スポーツヒューマンキャピタル(SHC)での経験も大きいと感じています。そのあたりの話も交えながら、私がこの世界に入った経緯や、今の仕事の魅力をお伝えできればと思います。

土台は、早稲田で培った人間性

兄の影響で幼少期からサッカーを始め、地元の埼玉県さいたま市(旧浦和市)で浦和レッズのアカデミーに中高6年間所属していました。プロを目指していたものの、親の教えもあって、大学はサッカーにも勉強にもしっかり打ち込めるところに行こうと。

サッカーが強い大学に行きたかったのはもちろんですが、強いだけでなく“良い人材”がいる大学を探しました。練習に参加した時の雰囲気や、ジュニアユースでもお世話になった先輩の話から、早稲田ならひとりの人間として成長できる環境があると思い進学を決めました。

早稲田では、サッカー以前に「ひとりの人間としてどうあるべきか」といったことを問われることが多かったです。監督や先輩自ら背中で示してくれることも多く、あの4年間は非常に大きかったですね。

<写真提供:早稲田大学ア式蹴球部>

早稲田大学4年次はレギュラーとして活躍した。背番号は「5」

プロを諦めたのは、大学3年生の時です。当時Aチームに所属していましたが、ベンチに座る時間が多くて。ちょうど就職活動が始まるタイミングだったので、「この時期に試合に出ることができていないということは、今後サッカー選手としてのキャリアは難しいだろう」という結論に至りました。サッカー選手としての自分の未来に、自信が持てなかったんですよね。

今、浦和レッズのアカデミー時代、大学時代の友人の数多くがJリーガーとして活躍しています。彼らが私と決定的に違うのは、一人ひとりがサッカー選手というキャリアに自信を持って、厳しい世界を戦い抜いてきたことなのかなと。私の場合は、社会人としてのキャリアを歩んだ方が幸せな人生を歩めるのではないかと思い、サッカーには区切りをつけようと決意しました。

私は彼らのように日の当たるところにはいませんが、彼らに負けず恥じない仕事をしないといけないと思っています。サッカー界に入ってからは、「いつか何らかの形で一緒に仕事ができるといいね」という話をするようになり、モチベーションになっていますね。

<写真提供:早稲田大学ア式蹴球部>

最終学年次の早慶戦後。Jリーガーとなった同期もいる。※左から4人目が池西氏

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