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音楽で古巣を支える。元グランパスユース・内田旭彦(クアイフ)【PR】

スポーツ界を支えているのは、ファンを始めとした「支える人々」の熱量と言っても過言ではありません。本企画「スポーツを支える人々の“熱意”の裏側 powered by HEAT-X」では、愛するチームや選手を支える人たちのエピソードを発信します。

第4回は、名古屋グランパスのオフィシャルサポートソングを担当するスリーピースバンド・クアイフの内田旭彦さん。学生時代は吉田麻也選手(日本代表キャプテン)とともに、小学6年から高校2年まで、グランパスの下部組織でプレーしました。ジュニアユースでは、10番を背負った経験もあります。

現在は音楽だけでなく、いちサポーターとしてもクラブ愛を表現し続ける内田さん。サッカー選手から音楽家に転身した経緯と、グランパスへの想いを語っていただきました。

10番を背負い「プロになれると思っていた」

僕は3歳の時に、地元の「マルヤスFC83」でサッカーを始めました。同級生には田村優(ラグビー日本代表)、2個下には新里亮(V・ファーレン長崎所属)がいました。

中学でもサッカーを続けるつもりでしたが、サッカー部がなくて。高いレベルでやりたかったので、小学6年の時に名古屋グランパスジュニアのセレクションを受けました。吉田麻也(以下、麻也)と同じタイミングでの入団でした。

そのままジュニアユースに上がって、途中からはエースナンバーの10番。当時のコーチは、僕を高く評価してくれていました。プロになれると信じて疑わなかったし、良くも悪くも自信を持っていたと思います(笑)。

ジュニアユース時代は10番を背負った

僕は左利きで、ほとんど左足しか使わない選手でした。ポジションはトップ下や左サイドハーフで、タイプはゲームメーカー。フリーキックも蹴っていたので、麻也に合わせることもありましたね。

麻也は小学6年の時から身長が高くて(現在は189cm)。当時の集合写真を見ても、一人だけ図抜けていました。ただ、入団当初は年代別の代表に入るような選手ではなかったので、知名度はあまりなかったんです。

ジュニアユースの同級生には、長谷川徹(徳島ヴォルティス所属)、岡大生(栃木SC所属)らがいました。プロに行った選手も多くて、レベルが高かったです。

サッカーと音楽の両立で、精神的に苦しむ

ユースでもグランパスでプレーしましたが、高校2年の途中に辞めました。1年からサッカーと並行してバンドをやっていて、音楽への気持ちが強くなっていったんです。

音楽は昔から好きでした。小学校ではTHE BLUE HEARTS、中学ではMONGOL800に憧れて、アコースティックギターやベースを弾いていました。ユースの活動が忙しかったものの、時間を見つけてはバンドの練習。むりやり両立させていましたね(笑)。

ただ、体力面よりも精神面で両立が苦しくなっていきました。そもそもこの場所は、何かと両立する場所じゃないと。ユースには、親元を離れて寮生活をしながらプレーしている選手もいます。サッカーに人生をかけている人ばかりの中で、生半可な気持ちでやっている自分が徐々に許せなくなっていきました。

プレー面でも、ジュニアユースではプロになる自信がありましたが、ユースでは「難しいかもな……」と思い始めていました。県外から優秀な選手が来ていましたからね。今考えれば、辞めた理由は「音楽をやりたかった」というよりも「音楽へ逃げた」と言えるかもしれないです。

ジュニアユースからお世話になっていたコーチは、僕と同じタイミングでユースのコーチに上がりました。辞めると言った時は止めてくれましたが、僕の中では気持ちが固まっていて、揺らぎませんでした。選手には誰にも相談していなかったので、みんな驚いていましたね。

音楽では絶対に成功してやろうと思っていました。サッカーでは「負けた」と思っていたので、次に音楽で負けたら、もう居場所がないなと。クアイフを結成した当初は、かなりピリピリしていたと思います(笑)。

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