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スペシャルコンテンツ 鷹野祐菜 YUUNA TAKANO Vol.1「私は今、夢だった“サッカーを支える仕事”をしています」


総合型スポーツクラブ・東京ヴェルディで広報を務める鷹野祐菜さん。現在は、15競技、18チームあるクラブを全般的に網羅しながら、サッカーチームを中心に広報業務を担当する。兄妹の影響で、小・中学生時代にバスケ、高校時代にサッカーを続けながら、将来は“裏方”を志してきた。彼女はどのような道のりをたどって“あこがれの仕事”に就いたのか。どのような苦悩や葛藤があったのか。そして、総合型クラブとして生まれ変わろうとしている“ヴェルディ”のブランドをどのように支えているのか。稀有なビジョンと実行力をもつ若き広報ウーマンの、ありのままの生き様とメッセージとは。 「Smart Sports News」の独占インタビューを3回に分けてお届けする。

「サッカー選手を支えたい」想いで歩んだ道のり

──鷹野さんは高校からサッカーを始めたそうですね。それまでスポーツをしていたんですか?

兄と姉の3兄妹なのですが、兄はサッカー、姉はバスケットボールをしていて、私は小学2年生からバスケをしながら、兄が通うサッカーのチームでボールを蹴っていました。どちらも楽しくて両方とも続けたかったのですが、町のスポーツ少年団の代表者に「両方を掛け持ちするのはダメだから、どちらかを選択してほしい」と言われてしまい、選ばなければなりませんでした。当時、そのサッカーチームは女子がいなくて、男子の中にポツンと入ることになってしまうので、先に始めていたバスケに決めました。

──最初はバスケをされていたのですね。

はい。中学2年生のころ、3年生に交ざって試合に出ていたのですが、地域の大会では優勝を重ね、県でもベスト4という成績を収めていました。地域の選抜に選ばれるくらいにはなって、闘志を燃やしてきたので、バスケは中学で燃え尽きてしまいました。そこからはサッカーにシフトチェンジすることにしました。

──バスケは続けなかったのですね。

私はスポーツに燃えていたのですが、当時はBリーグもなく、バスケで何かを目指そうという将来の夢を描けませんでした。一方で、小学生の頃に興味を持ったサッカーには、Jリーグやなでしこリーグがありましたし、何かしら夢があると感じていました。その頃には「将来はJリーグに関わる仕事をしたい」という気持ちが芽生えていたので、サッカーをやろうと決めました。

──サッカーへの想いはずっと抱いていたのでしょうか?

兄が高校から静岡県の清水商業高校に進みました。“静岡”ってサッカー王国ですよね。最初は自分の部活動がない休日などに、兄の応援のつもりで試合を観に行っていたのですが、静岡のハイレベルな試合がすごく面白くてどんどんのめり込んでいきました。当時の清水商業には、現在、FC琉球でプレーしている風間宏希選手や風間宏矢選手がいて、川崎フロンターレでプレーしている大島僚太選手や長谷川竜也選手がいた静岡学園とバチバチやり合っていたのですが、そういう選手たちのサッカーを見ているうちにサッカーの面白さを知り、将来はサッカー選手を支える仕事をしたいと考えるようになっていきました。

──選手ではなく、最初から支える仕事を目指していたのでしょうか?

最初にイメージしていたのはアスレチックトレーナーで、そのために必要なトレーナーや柔道整復師の資格を取ろうと思っていました。自分はバスケでのケガが多かったこともあり、テーピングの巻き方やケアの仕方なども理解していたので生かせたらいいなと。

──それで、高校からは選手を始めていますよね。

そうですね。まずはサッカーの知識とサッカーをしている選手の気持ちを知るために、選手としてプレーもしておこうと。経験者が少ない高校だったので基礎から取り組みました。

──女子サッカー部がある学校を選んだのでしょうか。

すごくタイミングにも恵まれましたね。サッカー業界で活躍できなかったときのために別の選択肢も必要ですし、高校生になって心変わりがあってもいいように、就職のことも考えておこうと思っていました。当時、山梨県内に女子サッカー部があったのは3校で、一つは全国的にも知られている日本航空高校、もう一つは私が住んでいたところからはかなり遠い富士北稜高校、もう一つが甲府商業高校でした。甲府商業であれば女子サッカー部もあるし、就職率が高く、将来を見据えていろんな資格を取れるのでそこに決めました。

──リスクヘッジがすごいですね(笑)。

たしかに、いろいろと考えていました(笑)。

──高校サッカー部があることが第一条件だったのでしょうか?

まずはそれが前提でした。日本航空高校も初心者を受け入れていましたが、より上を目指すための厳しい指導を見たことがあったので絶対に無理だと思っていました。自分の目標は選手を支える側でしたし、そこにつなげられるような活動ができたらと思っていたので、レベルが高いかどうかはあまり重要ではありませんでした。

──どんな選手だったのでしょうか?

バスケでは、パワーフォワードやスモールフォワード、センターをしていたので、ゴールに近いプレーヤーだったのですが、サッカーでも高校・大学ともにサイドハーフかサイドバックをしていました。駆け上がるタイミングや相手をはがす感覚がバスケと似ていましたし、サイドでの上下動でハードワークするタイプでしたね。バスケとサッカーでは走る距離が違いますけど、体力には自信があったので、その強みを生かした選手だったと思います。

──その感じだと、チームの心臓というか、エースのような?

全くそんなことは無いです。エースではないですが、高校3年生ではキャプテンを務めました。

──キャプテンを任されたんですね。

当時の先生は、湘南ベルマーレ(現役当時はベルマーレ平塚)でもプレーしていた東條公平さんという方なのですが「みんなとコミュニケーションが取れるし、責任感が強いお前に任せたぞ」と言ってもらいました。

──先生は、鷹野さんのどのようなところに責任感を感じていたと思いますか?

そうですね、ちょっと話がそれるかもしれないのですが、実は、高校1年生の終わりくらいに車に撥ねられて、膝の内側を痛めてしまったことがあるんです。

──え、撥ねられてしまったんですか……。

はい。でも、そのときはアドレナリンが出ていたのか、救急車も呼ばず相手の方に、「大丈夫です!」と言って、そのまま20分くらいかけて壊れた自転車で高校まで行きました(笑)。高校に着いてからさすがに冷静になって、4階にあった教室に泣きながら入って、すぐ先生に病院に連れて行ってもらったのですが、内側側副靭帯損傷という全治3~4カ月くらいの大ケガでサッカーからは長期離脱することになってしまいました。なかなか良くならず、大きな病院に行って再検査をしたのですが、本当であれば手術を受けたほうがよかったそうです。大きな病院に行くのが遅かったので、そのまま自己治癒することになりました。

──壮絶なエピソードですね……。

そこで「遅れた分を取り戻すために誰にも負けないくらいリハビリを頑張ろう」と決意しました。そのときに、リハビリに付き合ってくれていた東條先生に「将来はトレーナーで活躍したい」という話をしました。先生はトップレベルを経験しているので、「Jリーグでも、なでしこでも、女性のトレーナーはなかなかいないし、狭き門だぞ。ただ、フロントスタッフであれば需要もあるし、人材を探していることも多いから、そこを目指してはどうか?」とアドバイスをもらいました。それから2年生の途中までリハビリをしながら、将来のことなども改めて考えるいい機会になりました。

──責任感というか、ものすごい精神力の強さを感じます。

自分には夢がありましたし、そのためにサッカーをしている、だから負けたくない。ケガから復帰してスタメンを取ってやるんだって奮闘していました。それが今思えば、チームに対する責任感でもあったのかなと思います。

──先生から「フロントであれば需要があるかも」と言われてからはどうしたのでしょう?

その時点で高校卒業後に就職するという選択肢がなくなり、専門学校か大学進学を目指し、高校在学中はビジネスに役立つ資格を取ろうと考えました。甲府商業では年に何種類もの資格試験を受けられるので、簿記や情報処理、電卓、ワープロ、デザイン文書などを一通り取得しました。

──その後、山梨学院大学に進学しました。

高校2年生の秋に、山梨学院大に女子サッカー部ができることを聞いたんです。それで、女子サッカーの裏方を手伝いたいと考えて、選手ではなくマネージャー志望で進学することを決めました。山梨学院大は、当時はまだスポーツ科学部がなかったのですが、学部横断型副専攻カリキュラム「スポーツアドミニストレーション」があったので、スポーツと法、心理学、トレーニング論、メディア論、マーケティング論、地域貢献など、スポーツマネジメントや経営情報学を学ぶことができました。大学がヴァンフォーレ甲府と提携していることもあり、スポーツとビジネスの授業では実際にフロントスタッフの方が毎週講義をしに来てくれていたので、Jリーグクラブの経営についても学ことができて充実していました。

──女子サッカー部の主務ではどんな仕事をしていたのでしょうか?

いわゆるマネージャーですよね。でも、1年生のときは女子サッカー部が創部1年目ということで選手が12人しかいませんでした。人数が少なかったこともあって、高校卒業前に横森巧総監督から、「申し訳ないが、1年間だけ選手をしてくれないか」とお願いされました。そんなつもりはなかったのですが(笑)、1年だけは選手と主務の仕事を掛け持ちしていました。

──そのまま選手を続ける選択はなかったのでしょうか?

私は将来を考えて裏方にしか興味がなかったので。それに選手に比べて出会う人が広がることも有意義でした。監督の田代久美子は元浦和レッズレディースで選手をやっていたこともあり、日本サッカー協会(JFA)のナショナルトレセンコーチもされていたので、JFAの方とお会いしたり、実際の現場のお仕事や、サッカーに携わる人がどのように働かれているのかを身近で感じられたことで、人脈や見識が広がりましたし、総じて裏方が見えたことが良かったと思っています。

──たとえば広報のお仕事は、華やかそうに見えてもちろん大変なことも多いですよね。

まさに、地味な作業が多いと思います。

──そうしたことを知っても、裏方に携わりたい想いは変わらなかった。

そうですね。実際の現場の方にも苦労は聞いていたのですが、私は中学の頃からそこを目指して大学にも進みましたし、信念を曲げられなくて(苦笑)。タイミングが合えば絶対にやりたいと思っていましたし、特に広報がいいな、とより明確になっていきました。大学でも、女子サッカー部第1期生ということで情報発信をしないと多くの人に知ってもらえないので、すべてゼロから始めていきました。

──サッカー業界、フロント、広報と徐々に明確になっていったんですね。

そうですね。現場を見た印象と自分の想いを踏まえて定まっていきました。広報としては、部のSNSや試合情報や結果を掲載するサイトを管理していたので、試合のレビューなどもJクラブを真似てやってみたりしました。紆余曲折あったように思いますが、小さい頃から「サッカーに携わりたい」と想っていたところから、一つひとつ道が続いていったのかなと思います。

Vol.2「『東京ヴェルディ』のブランディング担当です」

Vol.3「『女性だから』という抵抗はありません」

■プロフィール

鷹野祐菜(たかの・ゆうな)
山梨県出身。総合型スポーツクラブ・東京ヴェルディ広報部マーケティングコミュニケーショングループ。山梨学院大学を卒業後、東京ヴェルディ株式会社に入社。中学時代からの夢だった「サッカー業界」「裏方の仕事」を始めると、クラブの総合型スポーツクラブへの変革過程で、あらゆるスポーツを兼任する広報などを歴任。現在も職務を務めつつ、サッカーチームを主軸に広報業務を担当する。

Twitter
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■クレジット

取材・構成:北健一郎、本田好伸
写真提供:東京ヴェルディ

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