【須賀雄大のこれまで】自分の目指すフットサルの形が一つできた|The Turning Point

2009年、第14回全日本フットサル選手権優勝。関東リーグ1部のチームが当時のFリーグトップ3を撃破したセンセーションはいまだに色あせない。とはいえ、その前後も彼はらセンセーションであり続けた。ボツワナ、フウガ、フウガドールすみだ、チームと共に進化してきた須賀雄大の「これまで」を紐解く。

取材・構成=高田宗太郎

トライ&エラーの繰り返しだった監督生活

──あらためて、お疲れさまでした。監督生活を振り返るにあたり、まずは、監督になったきっかけと流れを教えてください。

自分は大学卒業のタイミングでフットサル選手をキッパリやめようと思っていました。広告関係の、かなり残業も多い会社に就職したので、選手の道は区切りをつけました。でも、フットサル自体は好きですし、そのタイミングでボツワナFC目黒(フウガドールすみだの前身チーム)が関東リーグ1部に昇格したので手伝えることがあれば続けたい、と。そのなかで、自分たちは若いチームだったので、(前身クラブの創設メンバーの)木村幸司がキャプテン兼監督で苦労していた。いち選手である彼を手助けできるならと、ベンチワークとかも手伝いながらチームが円滑になるようにサポートする役割として、というのが始まりでした。

──ボツワナが関東1部に上がったのが2005年。当時はFリーグ発足前の最高峰リーグでしたが、選手兼監督や肩書き上の監督を置くチームも多かったですね。

そうですね。全部がうまくいっていたら、それで問題なかったのでしょうけどね。関東リーグで相手も強くなり、注目も集まり、責任も上がる。みんな出たいけど、試合に出られる選手は5人だし、そこへの説明もしっかりとしないといけない。日々の練習の評価も重要。選手がそれを望んでいたので、練習からベンチワークする人が組み立てないと整合性が取れない。なので、より一歩踏み込んだ立場で監督をしっかりやるという方向になっていきました。

──始めたときに、今こうなる想像は?

まったくしていませんでした(笑)。

──チープな表現ですが“ちゃんとした監督”に、変わっていったのはいつ頃から?

どうですかね。実際、最初やっていくなかで、自分が足りない、いたらないことは理解していましたが、自分の力が足りなくて、それこそフットサルを積み重ねてきたチーム、カスカヴェウ(ペスカドーラ町田の前身チーム)やプレデター(バルドラール浦安の前身チーム)に負けたときの絶望感は……。なんでこんなに違うんだろう、というマインドになり、今のままではダメだなと。それでどうするかを考えたときに、そこを知るべきだし、そのためにスペインにチームで行ったり、ブラジルに行ったりしました。北原亘(2006年に名古屋オーシャンズの前身チームである大洋薬品バンフへ移籍)に名古屋の取り組みを、当時の監督に許可をとった上で質問をしたり、名古屋の練習を見に行ったりしたこともあります。そうやって追求していくなかで、徐々に変わっていったと思います。

──当時、ボツワナみたいなチームはたくさんあった。サッカーで鳴らした選手たちが集まって、フットサルでも名乗りを上げるような現象が。ただ、その多くが、須賀さんが今言ったような壁にぶち当たって、やがてしぼんでいった。ボツワナは自分たちのスタイルを否定されても、変化し、成長していった。なぜ、そうできたんでしょうか。

一つは、素晴らしい選手がいたこと。本当に、本物だなと思える選手がそろっていました。もう一つは、常に本質を考える、というマインドをもった集団だった。戦術はあくまでツールであって、もっと深いところに自分たちの本質はありました。たとえば、1対1で負けない、とか。全体では5対5でも、局面では1対1。そこで負けなければ全体でも勝てるから、1対1に強い選手が出る。そこで負けると思っている選手が1人でもいたら、相手の突破口になってしまいますから。

──1対1で負けない、は当初のボツワナの象徴的な哲学であり、実は団体競技の大前提となる本質的なものですね。

団体競技は簡単に誰かのせいにできてしまう。1対1で負けたことを言い訳にできないように、守備をしたり、走り込みをしたり。そこからマイナーチェンジして、1対1では抜けないけど、2対1なら、と変化していきましたが、“局面を有利にする”という本質は変わっていません。今もっている方法で突破できないときに変化する。壁にぶつかる度に本質と向き合って、そこを追求するから、出口が見つかったときにレベルが上がる。その繰り返しだったと思います。

──1対1にこだわっていたチームが、数的有利をつくる動きを取り入れた。その表面上を切り取って、サッカー的なチームがフットサル的な動きを取り入れた、と外らかは言われました。

たとえば、ボール回しやデザインされたプレーにフットサル的な美しさがあり、それが素敵だと思うことは多々ありますが、そういうチームの監督が「前が空いていたら前に刺せ」とか指示することは、スペインのトップでも当然あって。太見寿人へのロングボールが通用しているのに、そこで待ったをかける必要はないし、誰も納得しない。その哲学は、今でも変わらない。自分たちが思っていること、本質は間違っていないけど、手段として、ロングボールだけでは生産性がないから、グラウンダーでどう通すかに変わっていった、という感覚ですね。

──一貫して哲学がある。しかし当時の須賀さんは今の須賀さんではない。苦労したことは何ですか。

かっこよく語っていますけど、当然、道を踏み外しかけることもありました。たとえば、4枚で回す相手に苦戦したときに、それを取り入れてみようとなった。けれど、取り入れたら、違和感、気持ち悪さがすごくて。4人で回すことが目的になりかけてしまったんですね。そこで、これは自分たちの本質からズレていると気づいて軌道修正する。そういうトライ&エラーはすごく繰り返しました。選手と対話して「これ何の意味があるの?」という問に答えられなければ自分の力量不足だし、これは本質ではないなと。だから、自分一人に一貫した哲学があたっというより、チーム全員でトライ&エラーをしてきた。みんなで決めて、みんなで前進してきました。

──たとえば、監督として駆け出しの時期にほしかったのは、戦術的な知識なのか、選手からの信頼なのか、結果なのか、はたまた別の何かなのか?

結果、ですね。やはり日本一になることしか考えていませんでした。とにかくそこを追及する。自分たちが日本一になれば、やっていることが正になると、結果を追い求めてやっていました

──実際に2009年の全日本選手権で当時のFリーグのトップ3を撃破して優勝しました。結果を得て、何か変わりましたか?

結論としては“勝つだけではダメだ”と感じました。優勝したときに、内輪で喜んで、すごく嬉しかったけど、満足できなかった。もっとたくさんの人、いろんな人と喜びを分かち合える空間がほしい、と。そのためには、Fリーグの舞台に立たないといけないし、勝ち方であるとか、いろんな人が熱狂する試合をするといったことも、ものすごく大事だと思いました。

──ただ、日本一という結果を出したことで、須賀さん自身としては、フットサルナビ(2006年に創刊されたフットサル専門雑誌。現在は休刊)で連載が始まったり、本を出したり。もともと須賀さんの言葉は、キャッチーでいて理にかなっていましたが、結果を出したことで説得力が高まったのでは?

おっしゃる通りですね。トライ&エラーの、エラーの最中を見られたら「何やっているんだ」となるけど、繰り返して積み重ねて日本一になった。そこで一つ、正しさを証明できたのはすごく大きかった。あとは、取材をしてもらうことで、たとえば「切り替え0秒」など、自分が当たり前に使っていた言葉に「当たり前じゃないよ」と着目してもらって、より自分の考えが言語化され、スタイルが固まっていったところはあります。

──当時は最初から答えが与えられていたわけではなかった。原始人が人間に変わっていくような、本物の進化の過程を辿っていった強さがある。あの結果を受けて、同業者からのリスペクトや周りの目も変わり始めたのでは?

そうですね。選手に関しては、優勝した2009年の大会では口をそろえて「とりあえず、正しいかは知らんけど、須賀がこう言っているからやる」と。

──たしかに大会中から、選手はそう言っていました。

あの大会では、1月の抽選の結果、グループリーグで名古屋との対戦が決まってからは名古屋対策しかしなかったんです。具体的には、相手を自陣に引き込んでからのカウンターです。当時の名古屋は今ほど強度が高い外国人選手はいなかったですし、たとえばマルキーニョスは攻撃から守備への切り替えでは隙もあった。堅守速攻は自分たちのスタイルとは違うかもしれないけど、とにかく日本一になるためと選手に納得してもらい、まずはこれをやり切ろうと説明しました。グループリーグで名古屋と戦えたことで「耐えないと勝てない」という感覚を、決勝では全員がもっていた。長い期間ひたすら選択と集中を続けて、そこで「切り替え0秒」のマインドに近づけました。自分の監督としてのキャリアとしても一つの大きなインパクトになりました。

──関東1部で6度、地域チャンピオンズリーグで5度の優勝を飾り、2014−2015シーズン、ついにFリーグへ昇格しました。やはりリーグのタイトルはほしかった。

それはもちろん、間違いないです。

──狙えそうだったシーズンは、西谷良介(現名古屋)が在籍していた2016−2017シーズン?

その年は一番近かったですけど、正直、あのときは本当にトライ&エラーをしていた時期だと思っています。Fリーグに上がって3年目。確信をもって狙いにいくよりは、ただがむしゃらで、Fリーグ自体をはかりかねていて、いろんなことを咀嚼して学んで、どうするかを考えていた時期でした。なので、結果としてやはりこうなるなという、序盤の勝ち切れているときに感じていました。

──監督生活が終わって思うことは?

実際に、自分の監督生活はトライ&エラーの繰り返しでした。今の自分が、ある意味で一つの、たどり着いた境地だと思っています。もちろん、人はトライ&エラーを繰り返す生き物ですが、自分のカテゴリーはエラーが起きてはいけない、結果としてエラーになることはあっても、起こしてはいけないステージです。だからこそ、自分もそこを目標に指導者をしてきて、一つの完成形、と言ったら成長はないけど、一つの形が、自分の目指すフットサルの形が一つできたなと思います。

──あのときこうしていればは、ない。

それはないですね。すみだではいろいろなことをやらせてもらえましたし。監督だけではなく、下部組織を含めたクラブのマネジメントも、強化部部長として選手の獲得も携わらせてもらえて、墨田区をフットサルの街にしたいと、いろいろな人にお会いできて、それが今も現在進行形で進んでいて。幸せな監督生活、クラブ生活でした。

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