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視力を失った柔道家が伝えたい「人の可能性を見せる」パラリンピックの魅力

UPDATE 2021/10/11

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東京オリンピックの閉幕からおよそ2週間。8月24日にパラリンピックが開幕を迎えた。依然として新型コロナウイルスの感染が拡大しており、緊急事態宣言下での開催に懐疑的な目が向けられている。

しかし柔道家として2008年のパラリンピックに参加した初瀬勇輔さん(視覚障害者柔道)は、様々な困難に向き合い、その都度絶望から這い上がってきたからこそ、パラリンピックが今の世の中に「可能性」を示すことができると語る。

現在は日本パラリンピック委員会の運営委員を務める初瀬さんにインタビューをお願いした。

※障害の表記について:固有名詞以外は「障がい」と記載しております。

「非接触」は、特に視覚障がい者に厳しい

──新型コロナウイルスの蔓延は、障がい者の方々にも大きな影響を与えているのでは?

初瀬勇輔(以下、初瀬) 障がい者のなかでも、特に視覚障がい者にはかなり厳しいと思います。去年の4月や5月は人が全く出歩いていなくて、視覚障がい者が道に迷っても尋ねることができませんでした。

視覚障がい者を案内する際は、肩や肘に触れるなど必ず接触を伴います。しかし今の世の中は接触を嫌がる。ご高齢の障がい者の方にはヘルパーさんが付くのですが、コロナの感染を嫌がって仕事に出てこないことがあるとも聞いています。

──確かに、コロナの蔓延で“接触を避ける”は1つのポイントとなっています。

初瀬 今は、非接触が進んでいますよね。例えばコンビニ。先日、買い物をした際にレジで「お支払い方法は?」と言われて「Suicaで」と答えると「(レジ画面を)押してください」と言われたんです。「操作がわからないので、現金でお願いします」と言っても同じように「押してください」と言われました。

非接触が増えることで、世の中が便利になることもわかります。ただ、私たちのような視覚障がい者にとっては、逆に生きにくくなっている。みなさんが便利になったと思うことが、私たちにとっては不便になっていることって、実はあるんですよ。

パラリンピックは人の可能性を見せる大会

──コロナによって様々な状況が変わってきています。オリンピック開催についても懐疑的な目が向けられていました。まもなくパラリンピックが開催されますが、率直にいかがでしょうか?

初瀬 オリンピックについては、色々な意見が出ていることも理解していますが、開催できて良かったと思っています。実際に開会式の視聴率は56%でしたし、アスリートたちの頑張りを見て応援の声が大きくなっていきました。

個人的に思うことですが、賛成反対どちらでもない層がいるのかなと。「これだけコロナの新規感染者が出ました」という報道を見て「やらない方がいいんじゃない」と思う人も、「選手たちは頑張ってこの大会を迎えました」という報道を見て応援してくれる。その時その時の空気感で動く人は多いと思います。そしてアスリートが頑張っている姿は、多くの人たちに感動を与えてくれました。

ただ、純粋に応援できる気持ちになれたのは無観客が決定したからだと思います。観客を入れていたら、コロナが心配だと思っていた人たちは一気に反対していたでしょう。複雑な状況のなかでしたが、開催できて良かったと思います。今回を逃せば次は3年後。前大会から8年となると、アスリートにとっては2世代違いますし、選手たちはガラッと変わっていたでしょう。

今大会で一番感じたのは、アスリートの真面目さです。アスリートの方たちはみんな、「この状況のなかでも開催してくれて」と感謝を口にします。そういう思いは、このコロナで頑張っている人たちに届いているんじゃないかなと思います。

──アスリートの頑張りが人々の支えになる?

初瀬 オリンピックよりも、パラリンピックの方が共感を得られるかもしれないですね。今は、本当に多くの人たちが、当たり前のようにできたことができなくなっています。ただ、目の前で懸命にプレーしているパラアスリートは、事故で車椅子生活になりながらも走れるようになりました。「諦めなければ色々な可能性がある」と思ってもらいたいですね。

オリンピックは人の限界を超えるところを見せますが、パラリンピックは人の可能性を見せるところだと思います。パラアスリートのプレーを見て、「自分もできる」「もっと頑張れる」「チャレンジできる」と思ってもらいたいですね。

30歳を超えて目が悪くなってもこれだけのことができるんだっていう、自分たちの身近な存在として可能性を感じさせてくれると思います。それがオリンピックとパラリンピックの役割の違いです。

だからこそパラリンピックも開催して欲しいですね。緊急事態宣言下なので無観客でもいいので開催して欲しいです。できれば少しでもお客さんが入るといいですね。

両眼の視力を失い絶望した学生時代

──柔道家として活躍されている初瀬さんですが、武道との出会いはいつでしたか?

初瀬 小学生の頃に空手を始めて、中学校でも続けるつもりでいましたが進学した学校に空手部がありませんでした。胴着を着て黒帯を締めるなど、似ている部分が多かった柔道部に入部することになりました。でも、柔道の方が肌に合ってたのかそれなりに強くなり、高校では県の強化選手に選ばれました。

──高校を卒業してからも柔道を続けていた?

初瀬 東大に行きたいと思い文科一類を受験したのですが、落ちて浪人しました。その浪人1年目の終わりに右目を悪くしました。診断結果は緑内障。本来は少しずつ視野がなくなる病気なのですが、両目で見ていると視野の欠損に気づきにくい。この病気は治るものではなく、通常は進行を遅らせる手術を行なうのですが、病院にいった時にはすでに片方の目はあまり見えなくなっていました。それが19歳です。

──19歳…。人生まだまだこれからの時期にショックが大きかったのでは?

初瀬 それがあまりショックじゃなかったですね。そもそも、見えなくなっていっていることに気づいていなかったですし、左目は普通に見えていました。生活の制限はほとんどありませんでしたね。

──そこから左目も悪くなっていった?

初瀬 左目が悪くなったのは、大学2年生だった2004年です。左目も緑内障と診断され、緊急手術をしました。右目と同じように中央の視野が欠損し、それから私の視界は中心がすっぽりと抜けてしまい、途端にできないことが増えました。

──両眼が見えなくなったことで精神的にも辛かったと思います。

初瀬 そのときは辛かったですね。ひとりで歩くことが難しい状態になるなど、生活の質が一気に変わりましたね。歩行以外にも多くの問題がありました。人の顔もわからず、文字も読めません。特に、ご飯を食べる時や箸を使う時など、今までは意識せずにできていたことができなくなったことが大きかったですね。

視覚障害者柔道で思い出した競争の楽しさ

──そういった想像を絶する状況から立ち直るきっかけを与えてくれたのが柔道?

初瀬 最終的には柔道ですね。ただ、その前に1つ大事な作業があって、それは“諦める作業”です。

──諦めるというとネガティブな印象を受けます。

初瀬 ネガティブなことではないです。見えなくなって、できなくなることは本当に多く、やりたくてもできないことが増えます。でもそれを受け入れることが必要です。

不思議なもので、人にはどんなに辛い状況でも慣れる強さがあります。そのためには時間が必要です。私は、周りの支えがあり、少しずつ目が見えない自分に慣れていきました。気持ちが整ったタイミングで、視覚障害者柔道に出会いました。

──それはいつごろですか?

初瀬 大学4年生の夏です。周りのみんなは就職が決まったり、卒業が決まったりとそれぞれが何をするか決まっている時期です。でも私の場合は、何かをやるやらないの前に、予定表は白紙でした。そんな時に視覚障害者柔道というものがあるよと聞いて、藁にもすがる思いで始めました。

──久しぶりに触れた柔道はいかがでしたか?

初瀬 楽しかったですね。畳の上はフラットです。それは、物理的に段差がないといった意味もありますが、柔道着を着て畳に上がれば、障がいがあっても変わらない。単純に強いか弱いかです。

視覚障害者柔道のルールでは、組んだ状態から競技が始まります。その状態からだと、数年ぶりでも相手を投げることができました。相手に投げられれば悔しいし、こちらが投げることができれば嬉しい。久しぶりに、バイアスがかかっていないなかでの平等を感じました。

──障がいがあるとできないことが増えると感じていたなかで、昔から続けていた柔道が再開できたことは大きな喜びになったのでは?

初瀬 障がいがあると様々な競走から外されてしまいます。視覚障害者柔道で久しぶりに競争できた喜びはありましたね。あと、思ったよりまだ強いなって(笑)。

全員にボッコボコにされていたら、視覚障害者柔道をやってなかったかもしれません。でもあの日から2カ月後に第20回の全日本視覚障害者柔道大会があり、そこで優勝したことから道が開けました。

──初出場の大会で優勝したことで、視覚障害者柔道に対する手応えはより強くなったのでは?

初瀬 あの大会は、たまたま当時の皇太子さまがいらっしゃっており、優勝者だけ別室で謁見する機会がありました。ちょっと前の私は、目が見えずに何やっていいかわからない状況でしたが、行動に移して柔道をやってみたら優勝して皇太子さまにお会いすることができました。

さらにその大会は翌年の世界選手権とアジア大会の予選を兼ねていて、日本代表に内定もしました。これまでは白紙だった自分にも予定ができたわけです。居場所を見つけたと思いましたね。

コロナにより潰えた東京大会出場

──そして2008年には北京のパラリンピックに出場されました。

初瀬 北京は一回戦で敗退し、敗者復活戦も負けました。時間いっぱい試合して楽しかったという思いもありますが、勝ちたかった。メダルを取りたかった思いがあるので心残りです。

──その悔しさを持って今もパラリンピックを目指して柔道を続けていらっしゃいます。

初瀬 ロンドン大会は出場枠がなくて出られず、リオ大会は力の衰えがあり出られませんでした。そこで一度引退したのですが、でも「東京パラリンピックに出たい」という思いから復帰しました。

内定をもらうために、残された最後の国際大会で結果を残せば出られるかもしれないところまではいきましたが、そのタイミングで新型コロナウイルスが蔓延し、大会が延期になりました。最終的には2020年秋に暫定で内定が発表され、そこに名前はありませんでした。

もやもやした気持ちが残っていますし、今もまだ辞めた気にはなれないです。ただ、次のパリはというと正直難しい。体力的なところもですが、そもそも私の役割が変わってきています。

今は視覚障害者柔道連盟の理事の他に選手会である日本パラリンピアンズ協会の理事、JPC(日本パラリンピック委員会)の運営委員もやっています。役割が変わってきたなかで、私が選手を続けることが日本のパラスポーツ界にとっていいことなのかと考えるようになりました。

──今回の取材で初瀬さんの前向きな姿勢を感じました。今はコロナ禍で誰もが苦しい生活を強いられています。こういう逆境をひっくり返すために必要なことは?

初瀬 よく「スポーツのチカラ」とはいいますが、それは他人に対して使うものではありません。自分が、スポーツを通じてポジティブになっていくことだと思います。

スポーツは目標を決めて、ステップアップしていく前向きな努力をしないと上手くなりません。まずは自分が前向きになって取り組み、それを周りの人が見て前向きな力を感じてくれる。

パラリンピックでは、そういう限界を突破する力や現状を打破する力というものを見てもらいたいですね。

■プロフィール
初瀬勇輔(はつせ・ゆうすけ)

1980年生まれ。19歳で右目の緑内障を発症し、その後左目も緑内障を発症。視覚障がいとなるが2008年の北京パラリンピックに出場した。現在は株式会社ユニバーサルスタイルを設立し、障がい者に特化した人材紹介を実施する一方で株式会社スタイル・エッMEDICALの代表として企業の健康経営サポートも積極的に行う。視覚障害者柔道連盟理事、日本パラリンピアンズ協会理事、日本パラリンピック委員会の運営委員を務める。

Twitterアカウント:@y_hatsuse

■クレジット
写真提供:初瀬勇輔
取材・文:川嶋正隆

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